出自と経歴
- 王璠、字は魯玉。父の礎は進士で文辞で名を知られた。元和五年、進士に及第し宏辞科に登った。風儀は整い操履は堅く、累く諸侯府に招かれた。元和中、入朝して監察御史となり起居舎人に再遷、鄭覃の鎮州宣慰に副使として従った。長慶中、員外郎を歴任し、十四年、職方郎中知制誥となり、宝暦元年二月、御史中丞に転じた。
僕射との礼争い
- 当時李逢吉が宰相で璠と親しく、郎官から掌誥に転じてすぐ中丞を拝したため逢吉の勢を恃んでやや横柄になった。かつて左僕射の李絳と街で出会った際、車を交わすも避けなかった。絳はこれを論じ、僕射は師長百僚の職で開元中は丞相と呼ばれ、その後三事の機務を離れても百司の権を総べる地位にあり、上表では姓を署さないなどの礼が武徳・貞観以来変わらず行われてきたが、近年才が位に見合わない者が特拝されるようになり旧儀が廃れ、僕射・中丞の礼が乱れていると上疏した。勅により両省で議定させたところ、元和中の伊慎の先例を踏まえ李絳の論は礼にかなうとされたが、逢吉は絳の直言を素より嫌っており、天子が旧儀の復活を許しても中書は処分せず、璠の中丞を罷め工部侍郎に遷し、絳の僕射も罷め太子少師分司東都とした。璠の権を弄び寵を頼む様はこの通りであった。
経歴続きと最期
- 璠は二年七月、河南尹に出た。太和二年、本官のまま東都選を権知し、十月、尚書右丞に転じ、選が終わると入朝を命じられた。三年、吏部侍郎に改められ、四年七月、京兆尹・兼御史大夫を拝し、十二月、左丞に遷り太常卿事を判した。六年八月、検校礼部尚書・潤州刺史・浙西観察使となった。
- 八年、李訓が寵を得ると璠をたびたび推薦し、召還されて再び右丞を拝した。璠は逢吉の旧吏であったことから訓に傾心し、権勢は朝廷を傾けるほどであった。九年五月、戸部尚書・判度支に遷り、謝恩の日には浴堂で対面され錦彩を賜った。その年十一月、李訓が宦官誅殺を図り璠に豪俠を募らせようとし、爪牙を募る名目で太原節度使に任じた。訓の敗の日、璠は長興裏の邸に帰ったが、その夜禁軍に捕らえられ一家が獄に下され、独柳樹で斬られ、家族は老幼を問わず皆死んだ。
子 遐休
- 璠の子の遐休は直弘文館であった。李訓が事を起こした日、遐休は館中で礼を行っており、同僚の駕部郎中令狐定ら五六人が見送っていたが、この日皆乱兵に捕らえられた。定は兄の楚が僕射であったため軍士に釈放されたが、遐休だけが捕らえられ誅された。
- 当初璠が浙西にあった頃、城壕を繕っていた際、役人が方石を掘り当て「山に石あり、石に玉あり、玉に瑕あり、瑕は即ち休す」との十二字が刻まれていた。璠はその意味が分からなかったが、京口の老人が「これは尚書にとって吉兆ではない。尚書の祖の名は崟、崟が礎を生んだのが山に石あり、礎が尚書を生んだのが石に玉あり。尚書の子の名は遐休、休とは絶えるという意味、これは吉兆ではない」と解いた。果たして一族皆殺しとなった。