出自と経歴
- 馮宿は東陽の人。幼少の頃、父の子華に従い祖墓に廬すると霊芝・白兎の瑞祥があった。宿の兄弟二人はいずれも幼くして文学があった。宿は進士第に登り、徐州節度の張建封が掌書記に招いた。建封の没後、その子の愔が軍士に擁立されたが、李師古が喪に乗じて徐州を襲おうとした。当時王武俊もその隙を窺っており、愔は恐れて対策がなかった。宿は檄書で師古を招く一方、武俊には「張公は君と兄弟の誼を結び共に両河を天子に帰そうとしていたことは衆人の知るところ。今張公が没し幼子が乱兵に脅されている。内には朝廷との誠款が絶え、外には強寇に境土を侵されつつある。このように孤立無援であるのに公が座視されてよいものか。天子に奏して先の僕射の忠勲を思い、その子への脅迫を赦し自ら朝廷に帰参させれば、公は朝廷に対し乱を鎮めた功があり、張氏に対しては絶えた家を継がせた徳がある」と説いた。武俊は大いに喜び上表し、これにより朝廷は愔に節鉞を賜い、建封には司徒を追贈した。
経歴続き
- 宿はかつて建封に仕えたことから、その子愔の下で働くことを喜ばず、浙東観察使の賈全の府に招かれて去った。愔は去られたことを恨み、泉州司戸に貶するよう奏した。まもなく太常博士に召された。王士真が死し、その子承宗が朝命に従わなかったため諡を与えられなかったが、宿は懐柔の道として忠労を遺すべきでないとし、美諡を与えるべきと論じた。虞部・都官の両員外郎に転じた。
- 元和十二年、裴度に従い東征し彰義軍節度判官となった。淮西平定後、比部郎中を拝した。韓愈が仏骨を論じた際、時の宰相は宿がその疏を起草したと疑い、歙州刺史に出された。入朝して刑部郎中となり、十五年、権判考功となった。宿は宰臣・三品以下の官の内校考は別に封じて進めるのが故事であり、翰林学士は内署にあり事情が知り得ないため前例通り上考を書き、諫官・御史も旧例通り中上考を書くべきと請うた。
- 長慶元年、本官のまま知制誥となった。二年、兵部郎中に転じ前職を兼ねた。牛元翼が深州で王庭湊に従わなかったため詔により襄州節度使を授けられたが、赴任前に深州が庭湊に包囲された。同年、宿は検校右庶子・兼御史中丞、紫金魚袋を賜り留務を総べる任に赴いた。監軍使の周進栄が詔命に従わなかったため、宿はこれを上聞した。元翼が到着すると宿は朝に帰り、中書舎人を拝し太常少卿に転じた。
- 敬宗即位後、宿はしばしば乗輿を先導したが、華州刺史に出た。父の名(諱)を理由に上章して辞退し、左散騎常侍・集賢殿学士に改められ考制策官を兼ねた。
- 太和二年、河南尹を拝した。当時洛苑使の姚文寿が部下に民を侵略させ、吏は捕らえられずにいたが、ある大会の日、以前捕らえられた者が文寿の傍らで傲然としているのを宿が見つけ捕らえて杖殺した。
- 太和四年、工部侍郎に入り、六年、刑部侍郎に遷り『格後勅』三十巻を修め、兵部侍郎に遷った。九年、剣南東川節度使・検校礼部尚書として出た。
- 開成元年十二月に卒し、朝を廃し、吏部尚書を贈られ諡は懿。文集四十巻がある。子の図・陶・韜の三人はいずれも進士第に登り、清顕を歴任した。
弟 定
- 宿の弟の定、字は介夫。容貌壮偉で、宿と同じく文学があり、定はそれに勝った。貞元中、二人共に進士に挙げられ、当時の人は漢朝の二馮君に比した。於頔が姑蘇に牧たる時、定は寓居して布衣のまま友となった。後に頔が襄陽に帥たる際、定は驢に乗り軍門を訪れたが、吏が時を移さず取り次がなかったため、定は留まらず去った。頔は恥じて軍吏を笞打ち、銭五十万を運ばせ境まで追って謝ったが、定は逆旅で食事しつつ書を返し貴傲を責めて贈り物を返した。頔は深く恨みに思った。
- 権德輿が貢士を掌った際、定を上第に抜擢し、後に澗州で薛蘋の幕を佐け、校書郎を得、まもなく鄠県尉となり集賢校理を兼ねた。父の喪に居た際、哀毀により肺病を得、府に赴くのが時に及ばぬことがあり、大学士(宰相)は才を恃んで怠慢と疑い、その職を奪って大理評事とした。朝に登り太常博士となり祠部員外郎に転じた。
- 宝暦二年、郢州刺史に出た。長寿県尉の馬洪沼が定は人の妻を強奪し、闕官の職田禄粟を私用に費やしたと告発し、監察御史の李顧行に鞫問を命じる詔が下った。獄が具わり上聞すると、「馮定は使臣の推問により己に入る贓私はなく、告発の罰銭もすべて公用であった。しかし長吏としての体面には無礼な点があり、刑賞に乖くところもあり宴遊も不節であった。恩赦により罪科を書き加えることは難いが、なお郡符を持つのは公議として不可であり、現任を停むべし」との制が下された。まもなく国子司業・河南少尹に任じられた。
- 太和九年八月、太常少卿となった。文宗は音楽を聴くたびに鄭・衛の俗楽を卑しみ、奉常に開元中の『霓裳羽衣舞』を習わせ『雲韶楽』でこれに和させた。舞曲が成り、定が楽工を総べて庭で閲した際、定はその中に立っていた。文宗はその端然たる立ち姿を見て姓名を問い、翰林学士の李珏が「これは馮定です」と答えると、文宗は喜び「古い章句をよくする者ではないか」と問うて階に召した。文宗は自ら定の『送客西江詩』を吟じ、吟じ終えていよいよ喜び、禁中の瑞錦を賜り、著した古体詩を録して献ずるよう命じた。まもなく諫議大夫・知匭事に遷った。
- この年、李訓の事が敗れ誅殺され、衣冠の者が横死する禍に多く遭い、中外は疑心暗鬼であった。改元の御殿の際、中尉の仇士良が神策の仗衛を殿門に用いるよう請うたのに対し、定は上疏してこれを止め、人々はこれを危ぶんだ。また左右史が宰臣に随って延英殿に入り記事することを許すよう請い、宰臣は不快であった。二年、太子詹事に改められ、三年、宰臣の鄭覃が太子太師を拝し尚書省で上事しようとした際、定は「『六典』によれば太師は詹事府に居り、都省で礼を上げるべきでない」と奏し、本司で上事することとなり、人々はこれを美とした。四年、衛尉卿に遷り、この年、老いを理由に上章し左散騎常侍として致仕した。会昌六年、工部尚書に改められて卒した。
- 先に長慶中、源寂が新羅国に使いした際、その国の人々が定の著した『黒水碑』『画鶴記』を伝写し諷念しているのを見た。韋休符が西番に使いした際にも、その国の人が定の『商山記』を屏障に書き写しているのを見た。その文名は戎夷にまで及んだ。
- 子の袞・顓・軒・巌の四人はいずれも進士第に登り、咸通中、台省を歴任した。宿の従弟に審・寛がいる。
從弟 審
- 審の父は子郁。審は貞元十二年に進士第に登り、累く使府に招かれ、入朝して監察御史となり累進して兵部郎中に至った。開成三年、諫議大夫に遷り、四年九月、桂州刺史・桂管観察使として出た。入朝して国子祭酒となった。国子監に『孔子碑』があり睿宗の篆額に「大周」の二字が加えられていたが、これは武后の時の篆であった。審はその偽号を削り「大唐」の字に復すよう請い、これに従った。咸通中、秘書監にて卒した。
審弟 寛
- 審の弟の寛、その子の緘はいずれも進士に及第し、当時に名を知られた。