出自と経歴
- 封敖、字は碩夫、その先祖は渤海蓚の人。祖父は希奭。父の諒は官が低かった。敖は元和十年に進士第に登り、累く諸侯の府に招かれ、太和中、入朝して右拾遺となった。会昌初、員外郎知制誥として翰林学士に召され、中書舎人を拝した。
- 敖は構思が敏速で、語は近くとも理は優れ、奇僻を求めず、武宗に深く重んじられた。かつて『賜陣傷邊將詔』を起草した際の警句「傷は爾の体にあれど、痛みは朕の身にあり」を帝は見て善しとし宮錦を賜った。李德裕が相位にあり回鶻を破り劉稹を誅する策を定めた際、議論の中で異論を唱える者もあったが、徳裕は籌計指画し奇功を立てた。武宗は徳裕を賞し衛国公に封じ太尉とし、その制語に「風波の中で横議を遏め、掌握のうちに奇謀を定めた。逆賊の稹が兵を盗み壺関が昼も鎖されていた折、造膝の嘉話、胸襟を開いた静思、意は皆我と同じく言は他に惑わされなかった」と記した。制が出ると敖はこれを慶いに赴いたところ、徳裕は口ずさんでこの数句を誦し、敖の肩を撫でて「陸生(陸賈)に『恨むらくは文が意に及ばぬこと』という言葉があるが、卿のこの語のようなものは、筆を執る者もたやすくは言葉にできない」と述べ、座中で自らの帯びていた玉帯を解いて敖に贈り、深く礼遇した。
- しかし敖は士としての節操を保たず、人々はその才を重んじながらもその行いを軽んじ、徳裕も大きくは用いなかった。徳裕が罷相すると敖もまた内職を罷められた。宣宗即位後、礼部侍郎に遷り、大中二年、貢部を掌り多く文士を抜擢した。吏部侍郎・渤海男・食邑七百戸に転じ、四年、興元尹・御史大夫・山南西道節度使として出、左散騎常侍を歴任し、十一年、太常卿を拝し淄青節度使に出、入朝して戸部尚書となり卒した。
- 子の彦卿・望卿、従子の特卿はいずれも進士に及第し、咸通以後、清顕を歴任した。
史論
- 史臣曰く、韋公(韋温)は正直で官を守り、正面から諫めて礼を得た。蕭子(蕭祐)は吏隠にありながらも名賢であった。蔚章(銭徽)は操韻こそ高くないが、従容とした長者であった。郁・朗の兄弟は志節高く、郁にはとくに世に伝わる風格があった。三高(高釴・銖・鍇)は一時に並び秀で、二馮(馮宿・定)は千里を競うほどであり、いずれも文才で国を輝かせ名を揚げた。文章の潤色の才では封(封敖)に並ぶ者はなく、長寿と栄慶を得たことも儒者として恥じるところはない。
- 賛に曰く、蒲を伏して諫めを進め、筆を染めて文を為す。獨孤・韋氏は志を君を匡すことに置いた。馮・高の諸子は綺繡のごとく繽紛たり。禁垣に美を独占し、渤海(封敖)は雲を凌いだ。