出自と経歴
- 錢徽、字は蔚章、呉郡の人。父の起は天宝十年に進士第に登り、五言詩をよくした。かつて郷薦を経て江湖に寄寓していた頃、客舎で月夜に一人で詩を吟じていると庭で「曲終わりて人見えず、江上数峰青し」と吟ずる声が聞こえ、起が驚いて衣を整えて見ると誰もおらず、鬼怪と思いその十字を記した。起が試験を受けた年、試題『湘霊鼓瑟詩』に「青」の字があったため、起はその鬼の詠んだ十字を落句とし、試官の李暐は深く感心して絶唱と称え、その年に及第、秘書省校書郎に出仕した。大暦中、韓翃・李端らと十人、いずれも詩才により貴遊の門に出入りし「十才子」と称され図画にも描かれた。起は尚書郎で官を終えた。
- 徽は貞元初に進士に及第、戎幕に従事し、元和初に入朝、三度遷って祠部員外郎となり翰林学士に召された。六年、祠部郎中・知制誥に転じ、八年、司封郎中に改められ緋魚袋を賜った。九年、中書舎人を拝した。十一年、王師が淮西を討つに際し詔により朝臣が兵議を行った際、徽は出兵が長年に及び供給の力が尽きていることを述べ、淮西への征討の中止を上疏したが、憲宗は不悦とし翰林学士の職を罷め本官のみとした。
貢挙不正事件
- 長慶元年、礼部侍郎となった。当時宰相の段文昌が蜀川に出鎮した。文昌は学を好み、図書古画をとりわけ好んだ。故刑部侍郎楊憑の兄弟は文学で名高く、家に鍾繇・王羲之・張旭・鄭虔らの書画を多く蔵していた。憑の子の渾之は進士を求め、家蔵の書画を尽く文昌に献じ、進士第への口利きを求めた。文昌は赴任に際し面と向かって錢徽に頼み、さらに私書で保薦した。翰林学士の李紳もまた挙子の周漢賓のことを徽に頼んだ。ところが放榜の結果、渾之・漢賓はいずれも及第しなかった。
- 李宗閔は元稹と元来親しかったが、稹が直道により長く左遷されていたのち朝に戻ると態度を大きく改め、近道により昇進を図るようになり、宗閔もまた昇進を急いでいたため、二人の間に隙が生じていた。楊汝士は徽と旧知であった。この年、宗閔の婿の蘇巣と汝士の末弟の殷士がいずれも及第したため、文昌・李紳は激怒した。
- 文昌が任地に赴く際、辞去の日に内殿で面奏し、徽が放った進士鄭朗ら十四人はいずれも子弟であり才藝が浅く選に当たらないと述べた。穆宗は学士の元稹・李紳にこの件を問うと、二人は文昌と同意見であった。そこで中書舎人の王起、主客郎中知制誥の白居易に命じて子亭で重試させ、内より題目「孤竹管賦」「鳥散余花落詩」を出したところ、十人が不合格となった。
- 詔が下り、朋党を戒め、鄭朗ら重試の結果を精しく調べたが、孤竹管は『周礼』にある祭天の楽であり本事すら知らず辞律も浅く粗雑であったとし、四海無事の折ゆえ寛大に処するとして、孔温業・趙存約・竇洵直は粗通として及第、裴撰は特に及第、鄭朗ら十人は落第とされた。以後の礼部挙人は開元二十五年の勅に準じ、及第後の雑文・策を中書門下に送り詳覆させることとした。
- まもなく徽は江州刺史に貶され、中書舎人の李宗閔は剣州刺史に、右補闕の楊汝士は開江令に左遷された。当初、徽を貶める議の際、宗閔・汝士は徽に文昌・李紳の私書を進呈すれば上の疑いが解けると勧めたが、徽は「そうではない。心に恥じることがなければ得失は同じこと、修身慎行の身として私書を証拠に用いるべきでない」と述べ、子弟に命じてこれを焼かせ、人々は徽を長者と称えた。
朋党への詔
- ほどなく穆宗は朋党の実態を知り、詔を下した。卿大夫が朝で互いに譲り合い、士庶人が列で互いに譲り合った古の理想を慕うが、中代以来争端が起こり、隠せば専蔽、暴けば侵誣となる、実を責め名を正さねば善悪は明らかにならぬとし、末代の偽り、卿大夫が退いて陰口を言い、士庶人が退いて讒言に浸る風潮、進んでは諂い退いては朋党を組む様、官の昇降を私恩・他門のせいにする風潮を厳しく戒め、貞観・開元の淳朴な風に立ち返るよう諭した。これは元稹の起草であった。詔が出ると、朋党の徒は市中で鞭打たれるかのように恐れ、李紳・元稹を睨みつけた。
晩年と子
- 徽は翌年、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍等使に遷った。文宗即位後、尚書左丞に召された。太和元年十二月、再び華州刺史を授けられ、二年秋、病により職を辞し吏部尚書として致仕した。三年三月に卒し、時に年七十五。子の可復・可及はいずれも進士第に登った。
- 可復は累進して礼部郎中に至った。太和九年、鄭注が鳳翔に出鎮した際、李訓が名家の子弟を賓佐に選び、可復は検校兵部郎中・兼御史中丞を授けられ鳳翔節度副使となった。その年十一月、李訓が敗れ鄭注が誅されると、可復は鳳翔監軍使に殺害された。