出自と経歴
- 獨孤郁は河南の人。父の及は天宝末、李華・蕭穎士らと並び称され、文をよくし、著した『仙掌銘』は当時大いに賞され、位は常州刺史に終わった。郁は貞元十四年に進士第に登り、文学に父の風があり、とくに舎人の権德輿に称えられ、その娘を娶わせられた。貞元末に監察御史となった。
- 元和初、才識兼茂・明於体用の制挙に応じ、策は第四等に入り左拾遺を拝した。太子司議郎の杜從郁が左補闕を拝した際、郁は同僚と共に「從郁は宰臣佑之(杜佑)の子であり、父が宰執にある以上、諫列にあるべきでない」と論じ、改めて左拾遺とさせた。さらに「補闕と拾遺は資品こそ異なるが同じ諫官であり、政に得失があれば子が父を論ずることになりかねない」と論じ、從郁は結局他官に改められた。
- 元和四年、右補闕に転じ、同僚と共に宦官の吐突承璀が河北招討使になるべきでないと論じ、招撫宣慰使に改められた。
- 五年、史館修撰を兼ね、まもなく翰林学士に召され、起居郎に遷った。権德輿が宰相となると、郁は婦(妻の父)であることを理由に内職を辞した。憲宗は「德輿にこのような良い婿がいたか」と言い、宰相に命じて士族の中から公主の婿を選ばせた。郁は考功員外郎に遷り、史館修撰・判館事を兼ね、『德宗実録』の編修に与った。
- 七年、本官のまま知制誥に復した。八年、駕部郎中に転じ、その年十月に再び翰林学士に召された。九年、病により内職を辞し、十一月に秘書少監に改められて卒した。
弟 朗
- 郁の弟の朗は、かつて諫官として淮西への出兵停止を請うたが旨に協わず、興元戸曹に左遷された。入朝して監察御史となり殿中侍御史に転じた。十五年、史館修撰を兼ね、都官員外郎に遷った。
- 長慶初、諫議大夫の李景倹が史館で飲酒し、酔って宰相に謁見し語辞で侮辱した事件に朗も同席していたため、漳州刺史に出された。入朝して左司員外郎、諫議大夫に遷った。揚州節度使の王播が鹽鐵使を罷免された後、中人に賄賂して復職を求めた際、朗は上章してこれを論じた。
- 宝暦元年十一月、御史中丞を拝し、二年六月には金紫の服を賜った。侍御史の李道枢が酔って朗に謁見したためこれを弾劾し司議郎に左授した。憲府の故事では三院御史は大夫・中丞が自ら辟召し朝に上奏するものだが、崔晃・鄭居中が憲長を経ずに任じられ、いずれも宰相の旧知であったため、勅命が下っても朗は拒んで受け入れず、崔晃は結局太常博士に改められ、鄭居中は東台に分司した。その年十月、高少逸が入閣の際に礼を失した際、朗が弾奏しなかったのは崔晃の一件で宰相を阻んだことへの含みがあったためとされ、高少逸は贊善大夫に左授され、朗も罰俸された。朗は執法が適わないとして中丞の辞任を願い出たが、敬宗は中使に慰諭させ許さなかった。文宗即位後、工部侍郎に改められ、太和元年八月、福州刺史・御史中丞・福建観察使として出仕、その月に赴任の途上で急逝し、右散騎常侍を贈られた。
子 庠
- 郁の子の庠もまた進士第に登り、大中以後、官は栄達し侍郎に至った。