舊唐書卷一百六十六 列傳第一百十六 白居易
白居易、字は楽天、太原の人(?–847年)。北斉の官人の子孫で、若くして文才により知られ、元和年間に翰林学士・左拾遺として憲宗にたびたび諫言した。武元衡暗殺後の上疏が咎められ江州司馬に左遷されて以降は仕官への意欲を弱め、洛陽で隠逸的な晩年を送った。元稹と並び「元白」と称され、諷諭詩から閑適詩に至る幅広い作品で唐代随一の詩人と評される。
年表(14件)
- 貞元十四年798年初めて進士に及第し秘書省校書郎を授けられる
- 元和元年806年制挙の才識兼茂・明於体用科に及第し盩厔県尉となる
- 元和二年807年翰林学士に召される
- 元和三年808年左拾遺を拝命する
- 元和六年811年母の喪に服し下邽に退居する
- 元和十年815年武元衡暗殺への上疏が咎められ江州司馬に左遷される
- 元和十三年818年忠州刺史に量移される
- 長慶元年821年穆宗の制挙で考策官を務める
- 太和二年828年刑部侍郎に転じ晋陽県男に封じられる
- 太和三年829年病を理由に洛陽に帰り太子賓客となる
- 太和五年831年河南尹を授けられる
- 開成元年836年同州刺史を病により辞退し太子少傅となる
- 開成四年839年中風を患い病臥する
- 大中元年847年七十六歳で没する
出自と若き日
- 白居易、字は楽天、太原の人。北斉の五兵尚書白建の子孫。建は士通を生み、士通は皇朝の利州都督。士通は志善を生み、志善は尚衣奉御。志善は温を生み、温は検校都官郎中。温は鍠を生み、鍠は酸棗・鞏の二県令を歴任した。鍠は季庚を生み、季庚は建中初に彭城令であった。当時李正己が河南十余州に拠って反乱していた。正己の一族の洧が徐州刺史であったが、季庚は洧を説いて彭門を朝廷に帰順させ、これにより朝散大夫・大理少卿・徐州別駕を授けられ緋魚袋を賜り徐泗観察判官を兼ねた。衢州・襄州の別駕を歴任した。鍠から季庚に至るまで代々儒学を篤く修め皆明経で出身した。季庚は居易を生んだ。かつて建が北斉で功を立て韓城に領地を賜り子孫がそこに住んだため一族は同州に籍を移し、温の代に下邽に移住し今に至るまで下邽の人とされる。
- 居易は幼くして聡明さが人並み外れ、心持ちは大らかであった。十五、六歳の頃、文章一編を懐に著作郎の呉の人顧況を訪ねた。況は文才があったが軽薄な性格で後進の文章には見るべきものがないと思っていたが、居易の文を読んで思わず門まで迎えに出て「私は文がもはや途絶えたと思っていたが、再びあなたのような者を得た」と述べた。
- 貞元十四年(798年)、初めて進士に応じ礼部侍郎高郢が甲科に推し、吏部の判で等第に入り秘書省校書郎を授けられた。元和元年四月(806年)、憲宗が制挙の応試者を策試する際、才識兼茂・明於体用科に応じ第四等に入り盩厔県尉・集賢校理を授けられた。
- 居易の文辞は豊かで艶があり特に詩に精通していた。校書郎から畿甸の官に至るまでに作った歌詩は数十百篇に及び、いずれも風刺の意を込め時の病を戒め政の欠を補うことを旨とした。士大夫はこれを高く評価し、しばしば宮中にも伝わった。憲宗は諫言を求め正しい言葉を渇望しており、二年十一月(807年)、翰林に召し学士とした。三年五月(808年)、左拾遺を拝命した。居易は文を愛する君主に遇われ破格の登用を受けたことから、平生蓄えてきたものをもって恩に報いようとし、拝命の日、上疏して事を述べた。
- (左拾遺拝命時の上疏の要旨)拾遺の官は職掌の重さに比べ官位は非常に低いが、これは官位を惜しむ心・我が身を惜しむ心を抱かせないためのものである。それゆえ拾遺には闕失があれば必ず正し違反があれば必ず諫めることが求められ、朝廷の得失・天下の利害をすべて言うべき責務がある。自分のような凡庸浅学な者がこの職にふさわしいか疑問だが、破格の登用に応え粉骨砕身する覚悟である。陛下が即位されて以来、政令に至らぬ点があれば必ず密かに意見を申し上げる、これが自分の職掌である。
- 居易は河南の元稹と親しく同年に制挙に及第し交情が篤かった。稹が監察御史から江陵府士曹掾に貶された際、翰林学士李絳・崔群が帝の前で稹の無実を論じ、居易もしばしば上疏して切実に諫めた。
- (元稹左遷への諫言の要旨)稹の左遷には不可な点が三つある。第一に、稹は職務に正直で権勢を恐れず摘発を行ってきた人物であり、これを罰すれば以後誰も陛下のために職を守り法を執る勇気を持たなくなる。第二に、房式の件では稹の対応にやや行き過ぎがあったとしても、既に処罰を受け謝罪した後にさらに左遷するのは行き過ぎであり、世論はこれを宦官劉士元との争いによるものと見ている、宦官が咎められず御史が処罰されるのは聖徳を損なう。第三に、稹はこれまで嚴礪・王沼・裴玢・韓皋ら方鎮の不正を次々に暴いてきたが、これを地方に左遷することは方鎮に報復の機会を与えることになり、朝廷は今後不正を知る術を失う。
- この上疏は取り上げられなかった。
- また淄青節度使李師道が魏徴の子孫の邸宅を贖うための絹を献上しようとした際、居易は「魏徴は先朝の宰相であり太宗自ら宮殿の材木を賜り邸を建てさせた由緒ある家柄です。子孫が邸を典入れした金額はさほど多くなく、官がこれを買い戻すべきで師道に美名を独占させるべきではありません」と諫め、憲宗はこれを深く納得した。
- 帝がさらに河東の王鍔に平章事を加えようとした際、居易は「宰相は陛下の輔弼の臣であり賢良の士でなければふさわしくありません。鍔は民の財を搾取して恩顧を買っており、四方の人に陛下が王鍔の進奉によって宰相位を与えたと思われれば聖朝に益はありません」と諫め、これは取りやめられた。
- 王承宗が命に逆らうと帝は神策中尉吐突承璀を招討使に用いようとし、諫官の上表は十のうち七、八がこれに反対した。居易は面と向かって論じ、言葉は切実であった。さらに河北での用兵の中止を求める数千言の上疏も行い、いずれも言いにくいことを言ってのけ、帝は多くを聞き入れた。ただ承璀の任命への反対が切実であったため帝はやや不快に思い、李絳に「白居易は小僧だ、私が抜擢して名声地位を与えたのに私に無礼だ、実に扱いにくい」と述べた。絳は「居易が死の罪を恐れず何事にも直言するのは陛下が特別に抜擢してくださった恩に報いるためであり、軽々しく言っているのではありません。陛下が諫諍の道を開こうとされるなら居易の言葉を阻むべきではありません」と答えた。帝は「卿の言う通りだ」と述べ、以後多くの諫言を聞き入れた。
- 五年(810年)、官を改める際、帝は崔群に「居易は官位が低く俸禄も薄い、資格や地位に縛られ格別の昇進はできないが、望む官があれば自ら申し出させよ」と述べた。居易は「姜公輔が内職にありながら京府判司を望んだのは親を養うためと聞いております。私にも老母がいて家は貧しく養いも十分ではありません、公輔の例に倣うことをお許しください」と上奏し、京兆府戸曹参軍を授けられた。六年四月(811年)、母陳夫人の喪に服し下邽に退居した。九年冬(814年)、朝廷に入り太子左賛善大夫を授けられた。
- 十年七月(815年)、盗賊が宰相武元衡を殺害すると、居易は真っ先に上疏してその冤罪を論じ賊を急ぎ捕らえ国の恥を雪ぐよう求めた。宰相は東宮の官が諫職ではないため諫官より先に発言すべきでないとした。折しも元来居易を快く思わない者が、居易が浮薄で品行がなく母が花見の折に井戸に落ちて亡くなったにもかかわらず『賞花』『新井』の詩を作ったのは名教を大いに傷つけるものであり官の列に置くべきでないと非難した。執政は居易の発言を憎んでいたこともあり江表の刺史に貶するよう上奏した。詔が出ると中書舎人王涯が上疏してこれを論じ、居易の犯した罪状からすれば郡を治めさせるべきでないとし、詔を追加して江州司馬に改められた。
- 居易は儒学に加え仏典にも通じ、常に憂いを忘れ物事に順応することを旨とし遷謫を意に介さなかった。湓城にあった折、廬山遺愛寺に隠棲の庵を建て、ある人への書にこう記した。「私は去年の秋初めて廬山に遊び、東西二林の間の香炉峰の麓に至り、雲や木、泉や石の絶景を見た。心惹かれて離れがたく草堂を建てた。前には十数株の高い松、千余竿の竹、青い蔦を垣とし白石を橋とし、水は舎の下を流れ滝が軒先に落ち、紅い柘榴と白い蓮が池の縁に並んでいる」と。居易は湊・満・朗・晦の四人の禅師と交わり、慧遠らの跡を追う世俗を超えた交わりを持った。しばしば連れ立って遊詠し険しい山を登り林泉の幽邃を極めた。悠然と心が解き放たれる境地に至ると自身の身体すら忘れるほどであった。時に長く帰らず、一月を超えて戻ることもあったが、郡守は朝廷の元高官として遇し咎めなかった。
白居易と元稹の交わり(『元九に与うる書』)
- 当時稹は通州にあり、詩の贈答は数千里の距離をものともせず続いた。稹への書で作文の大要を論じた。
- (元九与書の要旨)文の中でも詩は人の心を最も直接に動かすものであり、天地の理を根とし言葉を苗とし声を花とし義を実とする。聖人は詩を六義に整え五音に配し、上下の心が通じ合う道具とした。しかし周の衰えとともに采詩の官が廃れ、詩が政治を正し人情を通わせる機能を失っていった。『詩経』の伝統は『楚辞』を経て五言詩に受け継がれたが、屈原以来の詩人は不遇の身の上を詠むばかりで、なお風雅の趣は二、三割残っていた。晋・宋以降は謝霊運が山水に溺れ陶淵明が田園に偏り、梁・陳の頃には風月花鳥を弄ぶだけの詩に堕落してしまった。唐興って二百年、陳子昂・鮑防にわずかに『詩経』の風諭の志が見られる。李白は才気に優れるが風雅比興の作は十に一つもない。杜甫は『新安吏』『石壕吏』など時世を憂える詩を残したが、それでも全体の三、四割にすぎない。自分は詩道の頽廃を痛感し、及ばぬながらもこれを立て直したいと願ってきた。
- 自分は生後六、七か月で既に文字に親しみ、五、六歳で作詩を学び、九歳で声韻に通じ、二十歳を過ぎるまで昼夜書物と格闘し、口に瘡ができ肘に胼胝ができるほど学び続けた。二十七歳でようやく郷試に応じ、及第後も詩作を続け校書郎の頃には既に三、四百首を作っていた。朝廷に入り年を重ね世事に通じるにつれ、文章は時世のため、詩歌は現実のために作るべきだと悟った。
- 翰林学士・諫官となった頃、政の欠陥を補うため詩に託して奏上しようとした。しかし志を遂げる前に既に非難が生じてしまった。『賀雨詩』を作れば人々はふさわしくないと言い、『哭孔戡詩』を作れば人々は不快な顔をし、『秦中吟』を作れば権勢家が顔色を変え、『登楽遊園』を作れば執政が拳を握りしめ、『宿紫閣村』を作れば軍権を握る者が歯噛みした。同調しない者は自分を売名・誹謗と呼び、同調する者も牛僧孺への戒めのように距離を置いた。骨肉の妻子でさえ自分を非としない者はほとんどいない。かつて自分の詩を喜んでくれた鄧魴、涙した唐衢はいずれも早世し、残るのは足下(元稹)だけである。詩道はこれほどまでに天から見放されているのだろうか。
- 自分は関東の一書生にすぎず、読書と文章以外は無知で、書画・棋・博打の類も一切通じず、朝廷に人脈も後ろ盾もなく苦学のみでここまで来た。文章によって名を得て、文章によって罪を得た、これも自然の道理であろう。近ごろ聞くところでは礼部・吏部の選考でも自分の答案が基準にされ、詩句も人々の口に上っているという。長安に戻ると軍使高霞寓が妓を招く際、妓が「私は白学士の『長恨歌』を諳んじられます」と誇り値が上がったという話や、通州の駅館の柱に自分の詩が書き付けられていたという足下の話、漢南で客が自分を『秦中吟』『長恨歌』の作者と知って集まってきた話などを聞いた。長安から江西まで数千里、村の学校・仏寺・宿・舟の中に至るまで自分の詩が書き記され、士庶・僧・寡婦・処女までもがこれを口ずさんでいるという。これは戯れの技にすぎないが、今の世で重んじられているのはまさにここにある。
- 古人は「名は公器であり多く取るべきではない」と言った。自分は既に時の名声を過分に得ている、その上富貴まで望むのは天に対して欲張りすぎであろう。今の不遇はむしろ道理にかなっている。陳子昂・杜甫のような詩人でさえ拾遺の官のまま不遇のうちに没し、孟浩然は無官のまま生涯を終え、孟郊は六十で協律郎、張籍は五十でまだ太祝にすぎない。それに比べれば自分の才は彼らに及ばないのだから、今の境遇でも十分である。今、遠郡に左遷されていても官品は第五位、月俸四、五万で寒さに衣あり飢えに食あり、家族も養えている、これで十分白氏の子として恥じることはない。
- 数か月来、詩稿を整理し新旧の詩を分類した。拾遺以来の風諭を含む詩、武徳から元和までの事件に基づく『新楽府』を合わせた百五十首を「諷諭詩」、公務の合間や病臥の折に心を穏やかに保つ詩百首を「閑適詩」、外物に触発され感懐を詠んだ詩百首を「感傷詩」、その他の五言・七言・律詩・絶句四百余首を「雑律詩」とし、合わせて十五巻、約八百首とした。
- 古人は「窮すれば独り身を善くし、達すれば天下を兼ね済う」と言うが、自分もこの言葉を師としてきた。志は兼済にあり行いは独善にある、これを貫けば道となり言葉にすれば詩となる。諷諭詩は兼済の志、閑適詩は独善の義である。雑律詩は一時の興に任せて作ったもので、後世これを編む者があれば省いてよい。
- 世の人は耳で聞くものを貴び目で見るものを賤しみ、古を尊び今を卑しむものだが、韋応物の詩は生前あまり評価されず没後にようやく重んじられた。今の人が自分の詩で評価するのは雑律詩や『長恨歌』の類ばかりで、諷諭詩は意が激しく言葉が質朴、閑適詩は思いが淡く辞が迂遠であるため人に好まれないが、それでよい。今、自分の詩を理解してくれるのは足下(元稹)だけだが、百年千年後にはまた別の理解者が現れるかもしれない。この八、九年来、足下との間柄が好調な時は詩で戒め合い、困窮する時は詩で励まし合い、離れていれば詩で慰め合い、共にいれば詩で楽しみ合ってきた。
- 今年の春、城南に遊んだ際、馬上で足下と互いに新作の小律詩を口ずさみ合い、皇子陂から昭国里まで二十里余り絶えず詠み続けたことがあった。同行の攀・李の二人は口を挟む隙もなかった。自分を理解する者は「詩仙」と呼び、理解しない者は「詩魔」と呼ぶ。心身をすり減らし声を尽くすさまは確かに魔のようでもあり、美景や月夜に興じ老いを忘れる境地は仙のようでもある。これが自分が足下と共に世俗の枠を超えて交わってきた理由である。
- 当時足下は『元白往還集』の編纂を進めようとしていたが、まもなく足下が左遷され、自分も数か月と経たず後を追うように左遷され、その計画も頓挫してしまった。
- 常々足下に語ってきたことだが、人は自分の文章に甘くなりがちで、公平な批評眼を持つ友人の添削を経てこそ適切な繁簡を得られる。今それぞれ詩集を編み、いずれ会う日に互いの作品を出し合いたいと願っている。
- 潯陽の臘月、江風は厳しく寒く、年の暮れに楽しみも少なく夜は長く眠れない。灯りの前で思いつくままに書き記した、これを一夜の語らいの代わりとしてほしい。
- 居易の自叙はこのようなものであり、文士たちはこれを真実と受け止めた。
忠州から長安、そして各地の任へ
- 十三年冬(818年)、忠州刺史に量移された。潯陽から長江を遡り三峡を上った。十四年三月(819年)、元稹が峡口で居易を出迎え夷陵で三日間舟を停めた。末弟の行簡も同行し、三人は峡州西二十里の黄牛峡口の石洞で酒を酌み交わし詩を作り、名残惜しんで別れがたかった。南賓郡(忠州)は峡路の最も険しい地にあり花木に珍しいものが多かった。居易は郡にあった折『木蓮荔枝図』を作り朝中の親友に送り、その姿を記した。「茘枝は巴・峡の間に生じ形は帷蓋のように丸い。葉は桂に似て冬も青く、花は橘に似て春に咲き、実は丹のようで夏に熟す。房はブドウのようで核は枇杷のよう、殻は紅絹のようで膜は紫の薄絹のよう、果肉は雪のように白く透き通り、汁は甘酸っぱく醴酪のようだ。おおむねこのようだが実物はさらに優れている。枝を離れると一日で色が変わり、二日で香りが変わり、三日で味が変わり、四、五日を過ぎればすべて失われてしまう」。「木蓮は大きなもので高さ四、五丈、巴の民は黄心樹と呼び冬も落葉しない。幹は青楊に似て白い筋がある。葉は桂に似て厚く大きく葉脈がない。花は蓮に似て香り・色・つやはすべて同じだが房と蕊は異なる。四月初めに咲き始め散るまでわずか二十日ほど。元和十四年夏、道士毋丘元志に写生させた。辺境の地にあることを惜しみ三首の絶句を賦した」。「天は拠らせて深山に置いた」という句があり、都でも伝わり好事家が争って模写した。
- この年冬、京師に召還され司門員外郎を拝命した。翌年、主客郎中知制誥に転じ朝散大夫を加えられ初めて緋を着た。当時元稹も召還され尚書郎知制誥となり、二人は共に翰林の綸閣にあった。長慶元年三月(821年)、詔で中書舎人王起とともに礼部侍郎銭徽が及第させた鄭朗ら十四人を再試験した。十月、中書舎人に転じた。十一月、穆宗が自ら制挙の応試者を試す際、賈餗・陳岵とともに考策官を務めた。朝廷の文書の職はすべて真っ先に選ばれたが、多く排斥され才を用いられなかった。
- 当時天子は放埒で政に法度がなく、執政も適任ではなく制御の方策が誤り河朔が再び乱れた。居易はしばしば上疏してこれを論じたが天子は用いず、外任を求めた。七月、杭州刺史を授けられた。まもなく元稹が宰相を罷免され馮翊から浙東観察使に転じた。二人の交わりは元来深く杭州・越州は隣接しており詩の贈答は十日と間を置かなかった。かつて境上で会し数日を過ごして別れた。任期を終え太子左庶子として東都に分司した。宝暦中、再び蘇州刺史として出た。文宗即位後、秘書監に召され金紫を賜った。九月の帝の誕生日、居易は僧惟澄・道士趙常盈とともに麟徳殿で御前講論に召された。居易の論難は鋭く弁舌は泉のごとく湧き、帝は事前に準備していたのではと疑うほど深く感嘆した。太和二年正月(828年)、刑部侍郎に転じ晋陽県男に封じられ食邑三百戸を得た。三年(829年)、病を理由に東に帰り分司の官を求め、まもなく太子賓客を授けられた。
晩年――洛陽での隠逸
- 居易は初め策問で高位に入り翰林に抜擢され英主の格別な待遇を受け、大いに力を尽くし報いようとしたが、志を果たす前に権勢家に疎まれ江湖に流された。四、五年の間、蛮地の瘴気にほとんど身を失いかけた。以後、官途への意欲は衰え出処進退にこだわらず、逍遙自適と詩情を吟じることを旨とした。太和以後、李宗閔・李徳裕の朋党の争いが起こり、是非の排斥が朝に昇り夕に貶されるほど激しく天子もどうすることもできなかった。楊穎士・楊虞卿は宗閔と親しく、居易の妻は穎士の従妹にあたった。居易はますます不安を覚え、党人と見なされることを恐れ、閑職を求めて害を遠ざけようとした。就いた官はいずれも任期を全うせず病を理由に辞め分司の職を求め続け、識者はこれを評価した。五年(831年)、河南尹を授けられた。七年(833年)、再び太子賓客分司を授けられた。
- 以前、居易は杭州を罷免され洛陽に帰った際、履道里に旧散騎常侍楊憑の邸を得て、竹木・池館があり林泉の趣があった。家妓の樊素・蛮子という者が歌舞に長けていた。居易は尹を罷免され帰った後、しばしば独り舟の中で酒を酌み詩を賦し『池上篇』を作った。
- (池上篇の序の要旨)東都で最も風光明媚な地は東南の履道里、その中でも西北の一角、西の門北の垣の第一の邸こそ、白氏の翁楽天が老後を過ごす地である。地は十七畝、屋室が三分の一、水が五分の一、竹が九分の一、その間に島や樹や橋道が配される。主となった当初「池台があっても蓄えがなければ守れない」と池の東に穀倉を建て、「子弟があっても書物がなければ教えられない」と池の北に書庫を建て、「賓客・朋友があっても琴と酒がなければ楽しめない」と池の西に琴亭を建て石の樽を置いた。
- 楽天は杭州刺史を罷免された際、天竺石一つと華亭の鶴二羽を持ち帰り西平橋を築き池を巡る道を開いた。蘇州刺史を罷免された際は太湖石五つ、白蓮、折腰菱、青板の舟を持ち帰り、さらに中高橋を築き三島への道を通した。刑部侍郎を罷免された際は穀千斛、書物一車、音楽に通じた使用人百人ほどを連れ帰った。これより先、潁川の陳孝仙が酒の醸造法を伝え味は極上であり、博陵の崔晦叔(玄亮)が琴を贈りその音色は清らかで、蜀の客姜発が『秋思』の曲を伝えその音は淡く、弘農の楊貞一が青石三つを贈りその石は方正で平らかで座臥するに適していた。
- 太和三年夏(829年)、楽天は太子賓客の任を得て洛下に位を分かち、池のほとりに身を休めた。三度の任地で得た品々、四人の友から贈られた品々、そして自分自身、今ではすべてこの池のほとりの一物となった。春風の池、秋の月の池、蓮の香る朝、鶴の鳴く清らかな夕べ、楊の木や石を撫で、陳の酒を挙げ、崔の琴を執り『秋思』を弾じ、恍惚として満ち足りる、それ以外何も求めない。酒が回り琴を終えると楽童に中島の亭に登らせ『霓裳散序』を奏でさせ、その音は風に乗り竹の霞と波の月の間を漂う。曲が終わらぬうちに楽天は石の上で心地よく眠ってしまう。目覚めて詩でも賦でもない即興の言葉を石に書き付け、韻文めいたものとして『池上篇』と名付けた。
- (池上篇の詩の要旨)十畝の宅、五畝の園、一つの池、千竿の竹。狭いと言うなかれ、辺鄙と言うなかれ、膝を容れ肩を休めるに十分である。堂も亭も、橋も舟もあり、書も酒も、歌も琴もある。翁が一人その中にあり白髭が颯爽としている。分をわきまえ足るを知り、これ以上何も求めない。鳥が木を選ぶように巣を安んじ、蛙が穴を作るように海の広さを知らずとも満ち足りる。霊鵲も怪石も紫菱も白蓮も、すべて自分の好むところが目の前にある。時に杯を傾け、時に一篇を吟じる。妻子は睦まじく、鶏犬ものどかである。悠々自適、この地で老いていこう。
- さらに陶淵明の『五柳先生伝』に倣い『酔吟先生伝』を著し自らをなぞらえた。文章の闊達さはいずれもこのようなものであった。
- 太和末、李訓の変が起こり士大夫が大いに殺害され、士林は皆傷心し、居易はますます仕官の意欲を失った。開成元年(836年)、同州刺史を授けられたが病を理由に辞退した。まもなく太子少傅を授けられ馮翊県開国侯に封じられた。四年冬(839年)、中風を患い数か月床に伏し、家妓の樊・蛮らを解放し自ら墓誌を作った。病中も詩作を続け、自ら「私は六十八歳にして風痺の病を患い、身体が硬直し頭がふらつき左足が動かなくなった。老いと病が重なり時に応じて訪れたものであろう。私は仏教に心を寄せ老荘の道に身を任せ、病を通して身を見つめ、得るところがあった。外に身体を忘れ内に憂患を忘れ、禅観を先とし医療を後とした。一月ほど経つと病はやや軽くなり、門を閉ざし高く枕して淡々と安らいでいる。詩情が湧けば抑えきれず『病中詩』十五篇を作って自らを慰めた」と述べた。
- 会昌中、太子少傅を辞し刑部尚書として致仕することを願い出た。香山の僧如満と香火の交わりを結び、しばしば輿で往来し白衣に鳩杖を持ち自ら「香山居士」と号した。
- 大中元年(847年)に七十六歳で没した。尚書右僕射を追贈された。文集七十五巻、『経史事類』三十巻がいずれも世に伝わった。長慶末、浙東観察使元稹が居易の詩集の序を著した。
- (元稹の序の要旨)楽天は言葉を発する前から文字を指し示せば誤らず、話し始めると読書に励む姿は他の子と異なった。五、六歳で声韻を知り、十五歳で辞賦を志し、二十七歳で進士に応じた。貞元末、進士は文才より競争に走る風潮であったが、礼部侍郎高郢が初めて経学の実力を基準とし、楽天は一挙に上位で及第した。翌年抜萃甲科に及第すると『性習相近遠』『玄珠』『斬白蛇剣』等の賦や判の文が新進の進士の間で競って伝えられた。折しも憲宗が天下の士を策問で召し、その対策文が帝の意にかない再び甲科に登った。まもなく翰林に選ばれ制誥を掌った。しばしば上書して政の得失を論じ『賀雨詩』『秦中吟』等数十篇を作り天下の事を指摘し、当時の人はこれを『詩経』の風・『楚辞』になぞらえた。
- 自分は初め楽天と同じ秘書省にあり詩を贈答し合った。自分が江陵の掾に左遷された頃、楽天はまだ翰林にあり百韻の律詩や雑体の詩数十篇を送ってくれた。その後互いに江州・通州の掾となってからも贈答を続けた。巴・蜀・江・楚の間や長安の若者たちがこれに倣い新体の詩を競作し、自らを「元和詩」と称した。楽天の『秦中吟』『賀雨』等の諷諭・閑適の篇は当時理解する者が少なかったが、二十年の間に禁中や役所・寺院・宿場の壁に書き記されない所はなく、王侯・妾婦から牛飼い・馬丁までがこれを口ずさまない者はなかった。写本が市井で売買され、時にはこれを酒や茶と交換する者さえいた。名を偽って自作と称する者まで現れる有様であった。かつて平水の市で村の子供たちが競って歌を習っているのを見て問うと「先生が私たちに楽天・微之の詩を教えてくれた」と答え、自分が微之であることさえ知らなかった。また鶏林(新羅)の商人が熱心に詩を求め「わが国の宰相は一篇を一金で買い求め、偽物は宰相自らが見分けられる」と語ったという。詩がこれほど広く伝わった例は他にない。
- 長慶四年(824年)、楽天が杭州刺史から右庶子として召還された折、自分は会稽の刺史であったため、その文をすべて集め自ら編纂し五十巻、二千二百五十一首とした。先人の多くは「前集」「中集」と名付けたが、自分は陛下が翌年改元されることから、長慶の年号がここで終わることにちなみ『白氏長慶集』と名付けた。
- おおよそ人の文にはそれぞれ長所があるが、楽天の長所は特に多い。諷諭の詩は激烈さに優れ、閑適の詩は心を解き放つことに優れ、感傷の詩は切実さに優れ、五言律詩の長編は豊かさに優れ、短編は情趣に優れ、賦・賛・箴・戒の類は適切さに優れ、碑記・叙事・制誥は実質に優れ、啓奏・表状は率直さに優れ、書檄・辞冊・判文は尽くすところに優れる。総じて言えば、まことに多才と言うべきである。
- 世の人はこの稹の序が居易の力量を余すところなく伝えたと評した。
- 居易はかつて自らの文集を書写し江州の東西二林寺、洛陽の香山聖善等の寺に送り、仏典の伝の類のように広く流布させた。子はなく甥の孫を後継とした。遺命で下邽に葬らず香山の如満師の塔の側に葬るよう命じ、家人はこれに従って葬った。
居易の弟・白行簡
- 行簡、字は知退。貞元末、進士に及第し秘書省校書郎を授けられた。元和中、盧坦が東蜀を鎮すると掌書記に招かれた。府が解散すると潯陽に帰った。居易が江州司馬を授けられると兄に従い任地に赴いた。十五年(820年)、居易が朝廷に入り尚書郎となると行簡も左拾遺を授けられた。司門員外郎・主客郎中に累進した。長慶末、振武の水運営田使賀抜志が営田の数を実際より多く報告していたため詔で行簡に再調査させた。実際と異なることが判明すると志弘は自ら刺して死んだ。行簡は宝暦二年冬(826年)に病没した。文集十巻がある。行簡の文筆は兄の風格を継ぎ、辞賦は特に精密と称され文士は皆これを師法とした。居易は兄弟愛が人並み外れ、兄弟の間で賓客のように礼を尽くし合った。行簡の子亀児は多く自ら教え育て名を成した。当時これほどの兄弟愛は他に類がなかった。
居易の従弟・白敏中
- 敏中、字は用晦、居易の従父弟。祖父の鏻は揚府録事参軍で終わった。父の季康は溧陽令。敏中は幼くして父を失い兄たちに教え導かれた。長慶初、進士に及第し李聴を輔佐し河東・鄭滑・邠寧の三府の節度掌書記を歴任し試大理評事を兼ねた。太和七年(833年)、母の喪に服し下邽に退居した。会昌初、殿中侍御史となり東都に分司した。まもなく戸部員外郎を授けられ京師に戻った。
- 武宗は日頃から居易の名を聞いており即位すると登用しようとした。宰相李徳裕は居易が病弱で朝謁に堪えないと述べ、従弟の敏中の才が居易に似ていると進言し、その日のうちに知制誥に任じ翰林に召して学士とし中書舎人に遷らせた。兵部侍郎・学士承旨に累進した。会昌末、同平章事・刑部尚書・集賢史館大学士を兼ねた。宣宗即位後、右僕射・金紫光禄大夫・太清宮使・太原郡開国公を加えられ食邑二千戸を得た。李徳裕が再び嶺南に貶された際、敏中は四輔(宰相)の首座にありながら世論の毀誉に同調し一言も弁護せず、特にその罪を論じたてた。五年(845年、会昌五年)、宰相を罷免され検校司空として邠州刺史・邠寧節度・招撫党項都制置等使に出た。七年(847年)、特進・成都尹・剣南西川節度副大使知節度等事に進んだ。十一年二月(857年)、検校司徒・平章事・江陵尹・荊南節度使となった。懿宗即位後、司徒・門下侍郎・平章事に召され再び政を輔佐した。まもなく侍中を加えられた。三年(862年)、宰相を罷免され河中尹・河中晋絳節度使となった。中書令に累進した。太子太師として致仕し没した。
史論
- 史臣曰く、人材を挙げ士を選ぶ法は古くから重んじられてきた。漢の賢良策問、隋の詩賦の追加、中正の法の廃止、選挙の司への委任、これらを経て人々は競って技巧を凝らすようになり、屈原・宋玉を目指し『詩経』『楚辞』に肩を並べようとした。あるいは箴の欠を補う篇を模し、あるいは失われた句を補作した。皆『采葛』の一字一句をも争い『懐沙』の些細な言葉さえ競い、碧鶏の麗しさや白鳳の新奇さを競い合った。書物に編まれ管弦に載せられても、批評を免れることは難しく、司馬相如の『子虚賦』ほどの称賛を得られる者は稀であった。千年の後の今に至るまで文人は絶えないが、六義の源を統括し三変の体を論じるならば、班固・班昭のような者は少なく、建安七子に匹敵する者はどれほどいるだろうか。潘岳・陸機の情致に富む文、鮑照・謝霊運の清新な作、徐陵・庾信に至って華美はさらに増し、珠玉を連ねたような文章、金碧を交えた楼閣のような構成となった。国初に文館が開かれ高宗が秀才を礼遇すると、虞世南・許敬宗が先に名声を博し蘇味道・李嶠が後に続いた。台閣の高位に登り学識が天人に通じる者もいたが、いずれもその潤色の文はすべて文集に収められている。しかし古を慕う者は僻に過ぎ、華を追う者は時に道理を欠き、狭量な者は音律に囚われ、放縦な者は鄭衛の淫らな調べに流れた。もし調べと格律を論じ古今を比較して、賢愚を問わずその文を賞賛される者を挙げるなら、元稹・白居易の盛んさに及ぶ者はない。かつて建安の才子は曹丕・劉楨によって覇を定め、永明の詩の宗匠は沈約・謝朓に先を譲った。元和の詩壇を主導したのは微之・楽天の二人だけである。臣が元稹の制策と白居易の奏議を見るに、文章の奥義を極め治乱の根本を尽くしており、単なる謡や頌の断片、卑俗な小説の類ではない。文と行いを併せて見るなら居易が優れており、自ら得たところに心を任せ、身を必ず安んじられる地に置き、悠々と歳月を送った、まことに賢と言うべきである。
- 賛に曰く、文章の新しい体は建安・永明に始まった。沈約・謝朓の後を継ぎ、元稹・白居易が並び立った。ただ金石のような不朽の作品を留め、永く『詩経』の美しい調べを伝える。孫子・呉子の兵法を学ばなければ、どうして用兵を知り得ようか(元・白の詩を学ばずして詩の何たるかを知り得ようか)。