出自と若き日
- 元稹、字は微之、河南の人。後魏の昭成皇帝は稹の十代祖。兵部尚書昌平公巌は六代祖。曾祖の延景は岐州参軍。祖父の悱は南頓丞。父の寛は比部郎中・舒王府長史、稹が貴顕となったことで左僕射を追贈された。
- 稹は八歳で父を失った。母の鄭夫人は賢明な婦人で、家が貧しく自ら稹に読み書きを教えた。稹は九歳で文章を作れた。十五歳で両経に及第。二十四歳で判で第四等に入り秘書省校書郎を授けられた。二十八歳で制挙の才識兼茂・明於体用科に応じ、及第者十八人のうち稹が第一であった。元和元年四月(806年)のことである。制が下ると右拾遺を授けられた。
諫官としての活動
- 稹は性格が鋭敏で事に触れると次々と意見が湧いた。諫官の職に就くと凡庸に留まることを望まず何事にも発言し、その日のうちに諫職について論じる上疏を提出した。また以前王叔文・王伾が卑しい身分から寵愛を受け太子の側近となり、永貞の頃に朝政を大いに乱した経緯から、東宮の官には正しい人物を選ぶべきとして『教本書』を献上した。
- (教本書の要旨)帝王の教育は治乱を分ける最大の要である。周の成王は中程度の資質であったが、周公・召公ら正しい師傅に囲まれて育ったため道を全うできた。逆に秦の胡亥は趙高のような奸臣に囲まれ経書にも聖賢にも触れず育ったため国を滅ぼした。漢以降も教化が振るわないのは、まず高貴な者から教化すべきところをおろそかにし低い者にばかり教化を施す本末転倒にある。太宗は東宮時代から徳ある十八学士と交わり、即位後もその薫陶が国政に生きた。しかし太宗以後は次第に東宮の師傅職が軽んじられ、則天武后の専権や中宗・睿宗期の混乱を招いた。近年は師傅・侍読の職に病弱無能な者や武人が充てられがちで、士大夫はこれを恥じている。陛下には周の成王を導いた故事、太宗の学友の故事に倣い、重厚な学識と実務能力を兼ね備えた儒者を選び太子の師傅とし、皇太子に学問と礼を厳しく修めさせ、賢良な輔弼を選んで藩屏とすることを願う。
- 憲宗はこれを読んで大いに喜んだ。
- 稹はさらに西北辺境の事情を論じるなど、いずれも朝政の要点に触れるものであった。憲宗は召見して方略を問うたが、これが執政に忌まれ河南県尉に出された。母の喪に服し、喪が明けると監察御史を拝命した。
- 四年(809年)、東蜀への使命を帯びると、旧剣南東川節度使厳礪が制に反し勝手に課税し、塗山甫ら吏民八十八戸の田宅百十一・奴婢二十七人・草千五百束・銭七千貫を没収していたことを弾劾した。礪は既に死去していたが七州の刺史が処罰された。稹は職務を果たしたが、礪と親しかった執政に憎まれた。使命から戻ると東台の分務を命じられた。浙西観察使韓皋が湖州安吉県令孫沢を杖刑で処し四日で死なせた事件、徐州監軍使孟昇の死去に際し節度使王紹が官の券を用いて柩を輸送し郵舎に安置させた事件をそれぞれ法に基づき弾劾した。河南尹房式の不法を追及しようとし独断で職務を停止させた事件では、上表して事情を上聞したが房式は一月分の俸給を罰せられたのみで、稹は逆に京師に召還された。敷水駅に宿泊した際、宦官劉士元が後から到着し部屋を争い、士元が怒って戸を蹴破ったため稹は靴下のまま部屋の裏に逃げたが、追いつかれ鞭で顔を打たれ傷を負った。執政は稹が年少の後輩でありながら威権を振るおうとしていると見なし江陵府士曹参軍に貶した。
文才と流謫
- 稹は聡明で世に抜きん出て若くして才名があり、太原の白居易と親しかった。詩に巧みで風情や事物を詠むのに優れ、当時詩を語る者は元・白と並び称した。士大夫から庶民に至るまでその詩を諳んじ「元和体」と呼ばれた。俊敏で朝廷に容れられず荊蛮の地に流されること十年近くに及んだ。まもなく白居易も江州司馬に貶され、稹は通州司馬に量移された。通州と江州は遠く離れていたが二人は詩を贈答し合い、三十韻・五十韻から百韻に及ぶ詩も作られた。江南の士人はこれを伝え諳んじ都にまで知れ渡り、街々でこれを写す紙が値上がりするほどであった。その流離放逐の思いはいずれも哀切であった。
- 十四年(819年)、虢州長史から召還され膳部員外郎となった。宰相令狐楚は一代の文宗として稹の文才を日頃から知っており「かねてより貴殿の作品を読んできたが、数が少ないのを残念に思っていた。持っている作品を差し出してほしい」と述べた。稹はそこで自作を献じ、自ら序を記した。
- (元稹の自序の要旨)自分はもともと文を好んだのではなく仕官の道が科挙以外になかったため強いて臨んだにすぎない。左遷されて以来は世に忘れられたと思っていたが、宰相が朝廷でわざわざ自分の詩句を口にしていたと聞き、恐縮している。左遷以来十余年、暇に任せて詩作に専念し千余首を得た。感興を寄せた詩には風刺の意を含むものもあるが、率直すぎて罪を恐れ人に見せずにきた。杯を傾ける折に小品を作って楽しんだが、律詩の格調が低く俗に流れることを常に懸念していた。近ごろ江湖の若い詩人たちが自分と白居易の唱和の作風(次韻して難度を競い合う「元和体」)を真似て、支離滅裂な作にまで至っているのは自分の本意ではない。
- 楚は深くこれを称賛し、当代の鮑照・謝霊運と評した。
宮中での寵遇と挫折
- 穆宗が東宮にあった頃、妃嬪の中に稹の歌詩を曲にして愛唱する者がおり、帝もこれを知って評価し宮中では稹を「元才子」と呼んだ。荊南監軍崔潭峻は稹を大いに礼遇し属官並みには扱わず、常にその詩作を求めて口ずさんだ。長慶初、潭峻が朝廷に帰る際、稹の『連昌宮辞』等百余篇を帝に献上した。穆宗は大いに喜び稹の所在を尋ね「今は南宮の散郎です」と答えると、その日のうちに祠部郎中知制誥に転じさせた。朝廷は詔勅の起草が宰相府を経ずに決まったことを大いに卑しんだが、その文辞は古人にも匹敵するほどで大いに世に伝わり、稹はますます恩顧を受けた。『長慶宮辞』数十百篇を作り京師で競って伝唱された。まもなく翰林に召され中書舎人・承旨学士となった。宦官たちは潭峻の縁で稹と交わろうと争い、知枢密魏弘簡はとりわけ稹と親しく、穆宗はますます重んじた。河東節度使裴度は三度上疏し稹と弘簡が刎頸の交わりを結び朝政を乱していると激しく訴えた。穆宗は内外の評判を鑑み稹の内職を罷免し工部侍郎を授けたが、恩顧は衰えなかった。長慶二年(822年)、平章事を拝命した。詔が下った日、朝野は皆これを軽んじ笑った。
- 当時王廷湊・朱克融が兵を連ねて牛元翼を深州に包囲していた。朝廷はいずれの罪も赦し節鉞を賜り撤兵を命じたが両者とも詔に従わなかった。稹は天子の破格の抜擢に報いようと功を立てようとした。和王傅の於方という者、旧司空於頔の子で、稹に取り入っていた。彼は燕・趙の間に客居し賊党と親しい王昭・王友明という二人の奇士がいると述べ、これを反間として用いれば元翼を救出できると進言した。稹は自らの家財を出して彼らの行動費用に充て、さらに兵吏部の令史に賄賂を贈り任命状二十通を出させて便宜的に授与しようとし、いずれも同意した。李賞という者がこの於方の謀を知り、稹と裴度が不仲であることから度に「於方は稹に使われ客の王昭らを結んで度を刺そうとしている」と告げた。度はこれを隠して発表しなかった。神策軍中尉が於方の件を上奏すると、詔で三司使韓皋らに取り調べさせたところ、裴度暗殺の計画は証拠がなく、しかし以前の事はすべて露見した。結局稹・度ともに平章事を罷免され、稹は同州刺史に出され、度は僕射を守った。諫官は度への処分が重すぎ稹が軽すぎると上疏した。帝は内心稹を憐れみ長春宮使の職を削るにとどめた。
- 稹が宰相を罷免された当初、三司の獄がまだ上奏される前に京兆尹劉遵古が坊の役人を派遣し稹の邸を密かに見張らせた。稹はこれを訴え、帝は怒り遵古を罰し中使を遣わし稹を慰めた。稹は同州に着任すると謝恩の表を上げ、自ら経緯を述べた。
- (同州謝表の要旨)自分は聖恩を裏切り恩寵を辱めた以上、本来死を求めるべきなのに、なお官の栄誉を汚していることを恥じ入る。八歳で父を失い母子で乞食同然の生活を送りながら母の教えで学を志し、進士・制挙に及第し官途に就いたが、朋友の後援も親戚の庇護もなく、ひたすら自力で歩んできた。拾遺として時政をしばしば論じ憲宗に召し問われたが宰相に憎まれ河南県尉に出され、監察御史として不正を糺すたびに再び宰相の怒りを買い江陵に貶され、十年の長きにわたり不遇であった。元和十四年に赦されて以来、破格の恩寵を受け中書舎人・翰林承旨学士まで進んだが、そのたびに讒言に遭った。今回の於方の件も、深州の牛元翼を救おうとする陛下の御心に応えようとしただけで、決して裴度を害する意図はなかった。それを疑われ告発されたことは天地に恥じ入るばかりである。もとより一死をもって謝罪する覚悟であったのに、なお同州刺史という寛大な処分を賜ったのは陛下の特別な御心によるものと拝察する。今月三日、延英殿での対問を最後に拝謁できていないことを恨めしく思う。この身が朽ちても、再び京城の鐘鼓の音を聞けるならば九泉の下でも悔いはない。
- 同州に二年在任し、越州刺史・御史大夫・浙東観察使に改まった。会稽の山水は奇秀で、稹が招いた幕僚は皆当代の文士であり鏡湖・秦望への遊覧は月に三、四度に及んだ。その詩詠は常に巻を満たすほどであった。副使の竇鞏は海内に詩名が高く、稹との唱和が最も多く今も蘭亭の絶唱と称される。稹は思うままに遊興に興じ次第に身なりを構わなくなり、賄賂を貪ることでも当時知られた。越州に在任すること八年に及んだ。
- 太和初、検校礼部尚書を加えられた。三年九月(829年)、朝廷に入り尚書左丞となった。綱紀を振るい世論に反する郎官七人を退けた。しかし稹は元来品行にだらしなく人心は服さなかった。折しも宰相王播が急死し、稹は大いに奔走して宰相の座を求めた。四年正月(830年)、検校戸部尚書・鄂州刺史・御史大夫・武昌軍節度使を授けられた。五年七月二十二日(831年)、急病を発し一日で鎮で没した。享年五十三。尚書右僕射を追贈された。子の道護はまだ三歳であった。次兄の司農少卿積が喪事を営んだ。著した詩賦・詔冊・銘誄・論議等の雑文百巻は『元氏長慶集』と名付けられた。また古今の刑政をまとめた三百巻は『類集』と名付けられ、いずれも世に伝わった。
元稹自らの述懐
- 稹は長慶末、自作を編纂・削除する際に自序を記した。
- (元稹の自叙の要旨)劉歆は「制(詔勅)は削るべきでない」と言うが、自分は削るべきものと残すべきものがあると考える。謀策を献じ嗜欲を諫めるものは君主に功があれば栄誉は君に、臣が専断すれば栄誉は臣に帰す、これを妄りに残せば道に外れる。制度を明らかにし利害を論じ邪正を区分するものは、残せば事の理が明らかになり、除けば是非が曖昧になる、これを妄りに削れば過ちとなる。
- 元和初、憲宗が即位したばかりで諫言する者がなかった頃、自分は拾遺として『教本書』『諫職』『論事』等十数通を献じ、裴度・李正辞・韋熏がその内容を正当と認めた。宰相はこれを曲解して帝に伝えたが帝は次第に理解し召見して問うた。宰相は大いに怒り一月と経たず河南尉に出された。その後、御史として東川に使いした際、厳礪の不正を弾劾し塗山甫ら八十八家の資産を過剰に徴収していたことを暴いた。朝廷はこれを重んじ七刺史の給与を削り没収した資産を民に返させたが、後任の潘孟陽が礪よりさらに貪欲でこれを私利に転用してしまった。東川から戻ると礪と親しい者たちが密かに歯噛みして恨んだ。
- まもなく東都の台に赴任すると、天子が長く都を離れていたため不法がはびこっていた。百司が勝手に牢獄を設け年を越して拘禁する者もいたが台府がこれを知らずにいたため、専断的な拘禁を禁じる上奏をした。河南尉判官を弾劾して宰相の意に逆らい、徐州の監軍の柩の輸送に関する不正、浙西観察使が安吉県令を杖刑で死なせた事件、河南尹が書生を誣告した事件、飛龍使が逃亡奴を養子と偽った事件、田季安が洛陽の士族の娘を密かに娶った事件、汴州が商人の資産を不当に没収した事件、滑州が民から千を取り立て八百しか渡さなかった事件、朝廷の兵糧輸送の見積もりの誤りなど、数十件を摘発した。貞元以来、法に厳格に対処する慣行がなかったため内外の寵臣は皆沈黙していたが、河南尹房式の不正を摘発した際、以前沈黙していた者たちが一斉に騒ぎ立てた。宰相は元来自分が官吏を弾劾したことを恨んでおり、これに乗じて江陵の掾に貶した。それから十年を経てようやく膳部員外郎となった。
- 穆宗初、宰相が交代で権を握る中、宰相段公(段文昌)がある日一人で対問し、兵部郎中薛存慶・考功員外郎牛僧孺の登用を急ぎ求め、自分もその中に含まれ帝はこれを容れた。十数日と経たず給事中・中書舎人に用いられると、これを恨む者が日夜讒言を作り上げ、自分は罪を恐れ何度も自ら潔白を訴える上書をした。帝はこれを憐れみ三度召して語り合い、兵賦や西北辺境の事に及ぶと経営を任せられた。以後、上奏や参内のたびに天下の事を論じたが、外部にはそれが知られず多くの臆測を招いた。帝はますます自分が宮中の秘事を漏らさないことを評価し翰林に召し宰相に急ぎ用いようとした。当時裴度も太原にあり宰相の望みがあったため、巧みな者たちが両者をともに退けようと画策し、裴度に対する讒言に自分をでっち上げた。度からの上奏を検証するとすべて事実無根であった。帝は度が兵権を握っている以上事を荒立てず、自分を工部侍郎に出したため、度が宰相になる話も立ち消えとなった。数か月と経たず帝は讒言の全容を知ったが公にはせず、当初の意図通り自分と度をともに宰相とした。その後さらに於方の刺客の件で自分が告発され調べても証拠がなく、しかし度と自分はこれによりともに罷免された。
- 元和十五年八月に初めて帝に見えてから、まだ二年に満たないうちに恩寵を過分に受けた速さは前例がなく、また讒謗に遭った激しさも前例がない。心身をすり減らし危機を支えるのに精一杯で、陛下の委ねられた務めを整理する暇もなかった。それでも慌ただしい中で前後に上奏した兵賦・辺防の文書は百十五件を数える。これを削れば先帝の器量による登用を傷つけることになる。誹謗に弁明した文書も、削れば友人に潔白を示す術がなくなる。その他の郡県への上奏や祝賀の礼はこれらに付随して収めた。『教本書』から人に代わって書いた雑奏まで、二十七軸、合わせて二百二十七篇である。これを我が生涯の終わりに子孫に残すのは、制度を正すことの難しさとそれが容易に崩れることを示すためである。
- 以上が稹自身の述懐であり、その執筆の意図を知るためここに記した。
- 稹の文友では白居易が最も親しかった。後進の士人では龐厳を最も重んじ、その文体が自分に似ていると評し推薦した。
稹の推薦した後進・龐厳
- 龐厳は寿春の人。父は景昭。厳は元和中に進士に及第し、長慶元年(821年)制挙の賢良方正・能直言極諫科に応じ策問で三等に入り制科の首位となった。この月、左拾遺を拝命した。聡敏さは他に抜きん出て文章は峭麗であった。翰林学士元稹・李紳に大いに認められた。翌年二月、翰林に召され学士となった。左補闕に転じ駕部郎中知制誥に再遷した。厳は右拾遺蔣防とともに稹・紳に保薦され諫官・内職に至った。
- 四年(824年)、敬宗(昭愍)即位後、李紳が宰相李逢吉に排斥され端州司馬に貶された。厳はこれに連座し江州刺史に出された。給事中於敖は元来厳と親しく、制が下ると封じ返した。当時の人々は「於給事は宰相の怒りを買っても知己のために動いた、これは危ういのではないか」と互いに驚いた。改めて制が出されると、於敖が制書を差し戻したのは厳への処分が軽すぎることを咎めたためだと知れ、内外の人々は皆嗤い、これが物笑いの種となった。以前、李紳が左遷された際、朝官は皆逢吉に祝いを述べたが右拾遺呉思だけは祝わなかった。逢吉は怒り殿中侍御史に改め入蕃告哀使を命じた。厳は再び朝廷に入り庫部郎中となった。
- 太和二年二月(828年)、帝が制挙の応試者を試す際、厳は左散騎常侍馮宿・太常少卿賈餗とともに試験官を命じられ、裴休を甲等制科の首位とした。直言極諫科に応じた応試者に劉蕡という者があり、その対策文は激烈で数千言に及んだが選に漏れ、人々は皆これを不当と見た。その対策文は当時大いに広まり、及第者の中には自分の身分を劉蕡に譲りたいと申し出る者もあった。厳は太常少卿に再遷した。
- 五年(831年)、権知京兆尹となり、強引な手腕で権勢家を恐れないことで知られたが、士君子としての節操には欠け、権勢を貪り利を好んだ。酒に酔って没した。