舊唐書卷一百六十五 列傳第一百十五 徐晦

徐晦(?–838年)。進士出身。恩人楊憑が左遷された際、周囲が皆去る中ただ一人藍田まで見送ったことで知られ、剛直で世俗に流されぬ人柄を評価された。晩年失明し礼部尚書として致仕した。

年表(5件)

経歴

  • 徐晦は進士に及第し直言極諫制科にも登り櫟陽尉を授けられた。いずれも楊憑の推薦によるものであった。憑が罪を得て臨賀尉に貶されると、交友・親族で見送る者は誰もいなかったが、晦だけは藍田まで送り憑と別れの言葉を交わした。当時旧宰相権徳輿は憑と最も親しい関係にあり、晦のこの行動を知り晦に「今日臨賀(憑)を送ったのはまことに厚情だが、これが累にならないか」と述べた。晦は「私は布衣の頃から楊公の眷顧を受けました、今このように流された身となって、どうして無言のまま別れられましょうか。もし他日相公が奸邪に讒言され外で失意されることがあれば、私はどうして相公と軽々しく別れられましょうか」と答えた。徳輿はその誠実さを嘉し朝廷で大いに称えた。数日と経たず御史中丞李夷簡が晦を監察御史に招くと、晦は夷簡に「私は日頃から高官の門を訪ねたことがありません、公は何を信じて私を抜擢してくださったのですか」と尋ねた。夷簡は「君が楊臨賀を送り、禍を顧みなかったと聞いた、どうして国に背く者であろうか」と答えた。以後晦は名を知られるようになった。殿中侍御史・尚書郎を歴任し晋州刺史に出た。朝廷に入り中書舎人を拝命した。宝暦元年(825年)、福建観察使に出た。二年(826年)、工部侍郎として朝廷に入り、同州刺史・御史中丞に出た。太和四年(830年)、兵部侍郎に召された。五年(831年)、太子賓客として東都に分司した。晦は性格が剛直で世俗に流されず官にあって正道を守った。ただ酒を好むこと甚だしく、晩年には失明し衰えてしまった。礼部尚書として致仕した。開成三年三月(838年)に没し兵部尚書を追贈された。

史論

  • 史臣曰く、温造・柳公綽の二人は文章と行いで身を飾り名節を磨き、官にあっては法を守り堂々として大臣の節を持ちながら、結局三公の位には登らず官は正卿にとどまった。ここから公輔たる器量には和が貴ばれることが分かる。漢の武帝が汲黯を畏れながら公孫弘を宰相にし、太宗が魏徴を重んじながら房玄齢に政を委ねたのも、その趣旨は同じく遠いところにある。韋夏卿・崔玄亮は名士として賢を推挙し君に尽くし古の風格を大いに備えていた。殷侑(司空)は民を治め循吏と呼ぶにふさわしく、忠義と壮んな節操は晩年まで衰えなかった。徐晦・郭承嘏の率直な言葉は佳士の風格に満ちていた。これらの数名は、実に模範とすべき人物である。
  • 賛に曰く、柳氏の礼法は公にして忠、節操と気概を備えていた。打ち破ることには優れたが、大きくまとめる力にはやや欠けた。夏卿の抜擢の力、晦叔(玄亮)の匡正の助け。徐晦・郭承嘏の議論は、金玉のように鏘々と響いた。