舊唐書卷一百六十五 列傳第一百十五 郭承嘏

経歴

  • 郭承嘏、字は復卿。曾祖は尚父汾陽王(郭子儀)。祖父の晞は諸衛将軍。父は鈞。承嘏は生まれつき秀でて非凡で、乳飲み子の頃から筆硯を好んだ。成童の頃には『五経』に通じた。元和四年(809年)、礼部侍郎張弘靖がその才を知り進士に抜擢し、幕府に度々招かれた。渭南尉を歴任した。朝廷に入り監察御史となり起居舎人に遷った。母の喪に服し孝行で知られた。喪が明けると侍御史・職方兵部の二員外・兵部郎中を歴任した。太和六年(832年)、諫議大夫を拝命した。しばしば上疏し時政の得失を論じた。文宗が鄭注を太僕卿に任じると、承嘏は激しく論諫し、注はこれを大いに恐れた。本官のまま匭院事を知った。九年(835年)、給事中に転じた。
  • 開成元年(836年)、華州刺史・御史中丞を兼ね出された。詔が下ると両省の官が代わる代わる中書に赴き承嘏を退けた理由を尋ねた。給事中盧載は詔書を封じ返し「承嘏はこの官に就いて以来、封駁(不当な詔を差し戻す職務)を続けており職務をよく果たしています、瑣闥(門下省)に留めるべきです。太守の才を持つ人物は他にも選びやすいでしょう」と上奏した。文宗は宰臣に「承嘏は長く黄扉(門下省)にあった、その俸禄を優遇しようとしばらく近い関の廉問(監察職)を命じたのだ。ところが諫官たちがそろって上奏し、彼が職に適していることを惜しんでくれた、まことに美しいことだ」と述べた。再び給事中となった。
  • 文宗は淮南諸道が数年大旱に見舞われ租賦が入らず国用が大いに不足していることから、度支・戸部の職を宰臣に分担して兼ねさせ鎮めさせようとした。承嘏は「宰相とは、上は陰陽を調え下は民を安んじ、君を堯・舜に至らしめ時を清平にするものです。帳簿を閲覧させ銭帛を計算させるのはふさわしくありません」と論じた。帝はこれを深く嘉し刑部侍郎に遷った。当時朔望に際し刑法官が対問できることになっており、文宗は落ち着いて質問し恩礼は大いに厚かった。大用に至る前に二年二月(838年)に没した。承嘏は没後、家に余財はなく、葬祭の費用は皆親友が共に出し合って調えられた。士大夫は皆痛惜した。吏部尚書を追贈された。