舊唐書卷一百六十五 列傳第一百十五 崔玄亮

経歴

  • 崔玄亮、字は晦叔、山東磁州の人。玄亮は貞元十一年(795年)進士に及第し諸侯府の従事となった。性格は雅趣に富み道術を好み世俗の競争を好まず、長く江湖に遊んだ。元和初、知己の推薦で朝廷に入った。監察御史に再遷し侍御史に転じた。密州・湖州・曹州の三郡の刺史に出た。昇進のたびに謙譲の態度を顔に浮かべた。
  • 太和初、朝廷に入り太常少卿となった。四年(830年)、諫議大夫を拝命、謝恩の日、面前で金紫を賜った。朝廷はその名望を推し右散騎常侍に遷った。
  • 翌年、宰相宋申錫が鄭注に陥れられる事件が起こり、獄は宮中から起こり京師は震え恐れた。玄亮は真っ先に諫官十四人を率いて延英殿に赴き対問を願い出て、文宗と数百言の議論を交わした。文宗は初めその諫言を聞き入れず、申錫を法で罰しようとした。玄亮は泣いて「孟子は『衆人が皆殺すべきと言っても、まだ殺してはならない。卿大夫が皆殺すべきと言っても、まだ殺してはならない。天下が皆殺すべきと言って初めてこれを調べ、それから法にかけるべきだ』と言いました。今、至聖の御代に一人の凡人を殺すにも典法にかなう必要があるのに、まして無実の宰相を殺すのはなおさらではありませんか。臣が陛下のために天下の法を惜しむのであって、実は申錫のためではありません」と奏上した。言い終わると俯せに伏してむせび泣き、文宗はこれに感じて悟った。玄亮はこれにより朝廷で重んじられるようになった。
  • 七年(833年)、病を理由に地方の任を求め、宰相は弘農(虢州)がその願いに適うとし検校左散騎常侍・虢州刺史を授けた。この年七月、任地で没した。内外は皆嘆き惜しまない者がなかった。
  • 初め玄亮が及第した際、弟の純亮・寅亮も相次いで進士科に及第した。藩鎮の招聘があったが玄亮が最も顕達した。玄亮の孫の貽孫は官が侍郎に至った。