舊唐書卷一百六十五 列傳第一百十五 柳公綽
柳公綽(字は起之、?–832年)。京兆華原の人。制挙に及第し、剛直廉潔な吏として湖南・鄂岳観察使、山南東道・河東節度使等を歴任した。『太医箴』を献じて憲宗の狩猟遊興を諫めるなど諷諫に長け、厳格な家法で子弟を教えた。子は仲郢、弟は公権。
年表(19件)
- 貞元元年785年制挙で賢良方正・直言極諫科に登り秘書省校書郎となる
- 元和五年十一月810年『太医箴』を献上し憲宗の狩猟を諷諫する
- 元和六年811年潭州刺史・御史中丞となり湖南観察使を兼ねる
- 元和八年813年鄂州刺史・鄂岳観察使に移る
- 元和九年814年呉元済討伐のため自ら出征を願い出る
- 元和十一年816年給事中として朝廷に入る
- 元和十四年819年刑部侍郎に起用され塩鉄転運使を領する
- 長慶元年821年京兆尹・御史大夫となる
- 長慶三年823年尚書左丞に改まり検校戸部尚書・襄州刺史・山南東道節度使を拝命する
- 宝暦二年826年邠州刺史・邠寧慶節度使を授けられる
- 太和四年830年検校左僕射・太原尹・北都留守・河東節度観察等使となる
- 太和六年832年病により交代を求め、四月に没する
- 元和十三年818年進士に及第し秘書省校書郎となる
- 太和五年830年侍御史として李秀才の殺人事件で法の厳守を上奏する
- 会昌五年845年呉湘の獄を弁護し武宗の望仙台造営を諫める
- 大中十二年858年塩鉄転運使を罷免され刑部尚書を守る
- 元和初進士に及第し秘書省校書郎となる
- 開成三年838年工部侍郎に転じる
- 咸通六年865年没する。享年八十八
経歴
- 柳公綽、字は起之、京兆華原の人。祖父の正礼は邠州士曹参軍。父の子温は丹州刺史。公綽は幼くして聡明であった。十八歳で制挙に応じ賢良方正・直言極諫科に登り秘書省校書郎を授けられた。貞元元年(785年)のことである。貞元四年(788年)、再び制挙に応じ再び賢良方正科に登った。当時二十一歳であった。制が下ると渭南尉を授けられた。
- 公綽は性格が謹厳で行動は必ず礼法に従った。飢饉の年、家に十分な蓄えがあっても毎食一品を超えなかった。豊年になると元に戻した。家は非常に貧しかったが千巻の書を持ち、聖人の教えに反する書は読まなかった。文を作るにあたって華美を尊ばなかった。慈隰観察使姚斉梧に判官として奏請され殿中侍御史を得た。冬、推薦されて開州刺史を授けられ、朝廷に入り侍御史となり吏部員外郎に再遷した。武元衡が宰相を罷免され西蜀を鎮した際、裴度とともに元衡の判官となり特に親しかった。度に先立って吏部郎中として朝廷に入る際、度が詩を贈って餞別し「両人同日事征西、今日君先捧紫泥」(二人は同じ日に征西の任に就いたのに、今日は君が先に紫泥の詔を捧げる)の句があった。
- 元和初、憲宗はしばしば狩猟に出かけ用兵にも積極的であり、公綽は機会を捉えて諷諫しようとした。五年十一月(810年)、『太医箴』一篇を献上し、その辞にこう記した。
- (太医箴の要旨)天は寒暑を人に対して私することなく等しく与える。物事は貴賤の別なく等しく崇高である。ただ好悪の情を慎めば身を保つことができる。清浄で瑕がなければ光は日々新たになる。寒暑は天地に満ち肌膚を通して外から侵し、好悪は耳目にあふれ心を内から誘う。清潔を堤として保っても奔流には敗れやすく、気の乱れは些細な隙からでも生じる。聖なる資質は清明で俗を超え、心が正しく邪がなければ志は高く欲は少ない。天は高いと言っても気が曇れば覆われ、地は厚いと言っても横流すれば崩れる。聖徳が優れていれば万方がこれに頼る。飲食は身を養うものだが過ぎれば患いを生み、衣服は徳を表すものだが奢れば怠慢を生む。過ぎることと奢ることは必ず心に従い、気は心とともに流れ病もこれに伴う。聖なる心が惑わなければ誰がこれを動かせようか。狩猟に耽り情を流し志を蕩かし、馳駆して体を労し叱咤して気を傷めることは、天の重んじるところに反し禽獣を追うことの累いとなる。外を養わなければ古の賢人が忌んだところである。聖なる心がこれを非とすれば誰も逆らわない。人は気によって生き嗜欲がここに萌す。気が離れれば患いとなり気が凝れば成就する。巧みさは必ず真を失わせ、知恵は必ず情を誘う。煩わしい思慮を去り誠明にあることが肝要である。優れた医者は事が起こる前に治め、患いは慮りの後にあり、備えは事の前にある。心が静かで楽しみが自然に行われれば体は和らぎ道が全うされ、その後で徳を万物に施し長寿を享受することができる。聖人が上にあれば各々その処すべきところがある。諸政には役人があり諸芸には役所がある。臣は太医の職を司り、あえてこの言葉を陛下に申し上げる。
- 憲宗は深くこれを嘉した。翌日、中使を遣わし労い「卿の献じた文に『気行りて間隙なし、隙は大に在らず』とあった。どうしてこれほど朕を深く憂えてくれるのか」と述べた。一月余り後、御史中丞を拝命した。
- 公綽は元来裴垍と親しく、李吉甫が淮南に出鎮した際、深く垍を恨んでいた。六年(811年)、吉甫が再び政を輔佐すると、公綽は潭州刺史・御史中丞を兼ね湖南観察使とされた。湖南の地は低湿であり、公綽は母が京師にいるため迎えて仕えることができないとして宰相に書を送り洛陽への分司を願い出たが長く許されなかった。八年(813年)、鄂州刺史・鄂岳観察使に移り母を江夏に迎えた。
- 九年(814年)、呉元済が蔡州に拠って反乱すると朝廷軍が討伐した。詔で公綽に鄂岳の兵五千を安州刺史李聴に隷属させ行営に赴かせた。公綽は「朝廷は私が儒生だから兵を知らないと思っているのか」と述べ、その日のうちに自ら出征することを願い出て許された。公綽は鄂州から湘江を渡り安州に直行した。李聴は廉察使への礼で公綽を遇したが、公綽は「あなたが弓矢を帯びているのはまさに軍事のためではないか。もし軍装を脱いで公服を着るなら二郡の太守にすぎず、何を統率できようか。あなたは名家の出で兵事に通じている、もし私が指揮するに足りないと言うなら朝廷に赴くべきだ。そうでなければ私は職名を定め兵法によって事にあたる」と述べた。聴は「ただ公の命に従います」と答えた。公綽はすぐに聴を鄂岳都知兵馬使・中軍先鋒・行営兵馬都虞候とし三通の牒を授けた。兵六千を選んで聴に付し部下の将校に「行営の事はすべて都将(聴)の決定に従うように」と戒めた。聴は恩に感じ威に畏れ、まるでその麾下から出た将のように従った。公綽の権を知り機に応じて変化させる術は当時大いに称えられた。鄂州の軍が行営にある間、公綽は常に左右の者に家族を見舞わせた。病気や養生、葬送に至るまで必ず手厚く物資を給した。軍士の妻で身持ちの悪い者は長江に沈めた。行軍の兵は「中丞は我らのために家のことを気にかけてくださる、どうして応えないでいられようか」と語り合い、鄂州の兵は戦うたびに勝利を収めた。
- 十一年(816年)、給事中として朝廷に入った。李師道が朝廷に帰順すると公綽を鄆州に遣わし宣諭させた。使命を終えると京兆尹を拝命したが、母の喪により免ぜられた。
- 十四年(819年)、刑部侍郎に起用され塩鉄転運使を領した。兵部侍郎・御史大夫に転じ使も従前通り領した。長慶元年(821年)、使を罷免され再び京兆尹・御史大夫となった。
- 当時河朔が再び反乱し朝廷が用兵していたが、行営諸将の任命が朝令暮改で駅馬が絶えなかった。公綽は「幽州・鎮州での用兵以来、使命が頻繁で駅の馬房が不足し鞍馬が多く欠けています。さらに勅使の随行人数には全く制限がなく、緋紫を着て馬に乗る者は二十から三十匹、黄緑を着る者でも十匹五匹を下りません。駅の役人は券牒を確認せず口頭のまま供給しています。駅馬が尽きると道行く人の鞍馬を奪う始末です。士庶は驚き怨み遠近で騒然とし、輸送はまさに絶えようとしています。伏して聖慈をもってしかるべき制限を定めていただきたく存じます」と上奏した。中書に命じて人数を条制させることとなった。以後、役人は苦労を訴えなくなった。この率直な発言により北司(宦官)に憎まれ、まもなく吏部侍郎に転じた。
- 二年九月(822年)、御史大夫に遷った。韓弘が病になり河中から朝廷に入った。弘は守司徒・中書令とされ、詔で百僚に見舞わせることとなった。弘は子を遣わし事情を伝え会えないと言わせた。公綽はその子に「聖上は公の官が重いことから百司に見舞わせているのだ、これは異例の礼遇である。もし君の賜与を拝すべきなら、力を尽くして病を押して公に会うべきだ。どうして横になったまま子弟に伝言させるのか」と述べた。弘は恐れて人に支えられて出てきた。人々は皆この威厳に驚嘆した。
- 三年(823年)、尚書左丞に改まり、さらに検校戸部尚書・襄州刺史・山南東道節度使を拝命した。部内を巡行し鄧県に至った際、県の二人の役人が法を犯していた。一人は贈賄、一人は文書の偽造であった。県令は公綽が法を厳守するので必ず贈賄の役人を殺すだろうと考えたが、獄が定まると公綽は判じて「贈賄の役人が法を犯したのは法自体は健在である。しかし文書を偽造する奸吏が法を壊すのは法そのものが失われる。文書を偽造した者を誅すべし」と述べた。公綽の馬が馬丁を害した際、馬丁を斬るよう命じた。賓客が「良馬を惜しむべきです、馬丁の防備が足りなかっただけでしょう」と進言すると、公綽は「良馬が人を害することなどあってはならない」と述べ、すぐに殺させた。牛僧孺が宰相を罷免され江夏を鎮した際、公綽は軍装を整えて宿舎で出迎えた。軍吏は漢水沿岸(襄州)が鄂州より地位が高いとして礼が過ぎると考えたが、公綽は「奇章公(僧孺)は台席(宰相の座)を離れたばかりだ、方鎮は宰相を重んじるべきで、これは朝廷を尊ぶことなのだ」と述べ、結局軍装のまま会見した。ある道士が丹薬を献上し試すと効験があったので、どこで手に入れたか尋ねると「この丹を薊門で練った」と答えた。当時朱克融がまさに反乱していたため、公綽は急いで「惜しいことだ、至薬が逆賊の境から来たのでは、たとえ効験があっても何の益があろうか」と述べ、これを川に沈めて道士を追放した。鄧県の人鄭懐政が精神を病み妄りに天子を自称したため、公綽はこれを捕らえて殺した。
- 敬宗即位後、検校左僕射を加えられた。宝暦元年(825年)、刑部尚書として朝廷に入った。
- 二年(826年)、邠州刺史・邠寧慶節度使を授けられた。管内には神策軍の諸鎮が要地に駐屯していたが、以前は節度使の統制を受けず北方の異民族の深い侵入を招いていた。公綽は上疏してこれを論じ、詔で諸鎮はすべて邠寧節度使の統制を受けることとなった。
- 三年(827年)、朝廷に入り刑部尚書となった。京兆の人で姑が嫁を鞭打って死なせた事件があり、府はこれを死刑として断じた。公綽は「目上が目下を打つのは闘殴(喧嘩の罪)にあたらない、まして子がいるのに妻を殺して母を処刑するのは教化に反する」と論じ、結局死刑を減じられた。
- 太和四年(830年)、再び検校左僕射・太原尹・北都留守・河東節度観察等使となった。この年、北の異民族(回鶻)が梅禄将軍李暢に馬一万匹を伴わせ来訪し、名目は朝貢とされていた。経由した州府では守帥が礼儀を保ちつつ兵備を厳重にした。宿泊させる際は外に見張りを置き奇襲を恐れた。太原の慣例では兵を出して迎えたが、暢が国境に到着すると公綽は牙将祖考恭に単騎で労わせ友好の意を示した。暢は義に感じて涙を流し、道中もゆっくり進み妄りに馬を駆けて狩りをしなかった。到着すると牙門を開き通訳に案内させ通常の礼で宴を催した。馬市を終えて戻る際も侵犯することはなかった。陘北には沙陀の部落があり、九姓・六州の者たちも皆これを恐れ避けていた。公綽は着任すると首領の朱耶執宜を召し、雲州・朔州の塞下に直行させ十一か所の廃柵を修復させ兵三千を募って付し塞上に駐屯させ匈奴を防がせた。その妻や母が太原に来ると梁国夫人(公綽の妻)に酒食で慰労させた。沙陀はこれに感謝し、大いに効果があった。
- 六年(832年)、病により交代を求めた。三月、兵部尚書を授けられ京師に召還された。四月に没した。太子太保を追贈され諡は成。
- 公綽は生まれつき仁孝で、母崔夫人の喪に服した際は三年間沐浴しなかった。継母薛氏に三十年仕え、姻戚も公綽が薛氏の実子でないことを知らなかったほどである。異母兄の薛宮が早世すると、その孤児の娘を張毅夫に嫁がせ我が子以上の持参金を用意した。性格は端正で交友を選び、銭微・蒋乂・杜元穎・薛存誠と文雅を通じて親しみ交情は深かった。六度幕府を開き人材を得ることがとりわけ盛んであった。銭徽が貢挙を掌った年、鄭朗が落第となったが、公綽が襄陽に赴任する際に真っ先に招き、朗は後に名宰相となった。盧簡辞・崔玙・夏侯孜・韋長・李続・李拭は皆公卿に至った。吏部侍郎であった頃、舅の左丞崔従と同じ省にあり、人々はこれを栄誉とした。子は仲郢、弟は公権・公諒。
公綽の子・柳仲郢
- 仲郢、字は諭蒙、元和十三年(818年)進士に及第し秘書省校書郎に初任した。牛僧孺が江夏を鎮すると従事に招かれた。仲郢は父の風格を受け継ぎ礼法を守り、僧孺は「名教を積み重ねなければどうしてこれほどになれようか」と感嘆した。朝廷に入り監察御史となった。
- 五年(830年)、侍御史に遷った。富平県の人李秀才は禁軍に籍を持ち、郷人が父の墓の柏を伐ったと誣告して射殺した。法司はこれを専断による殺人として論じたが、文宗は宦官が庇っていたため杖刑で流刑にとどめた。右補闕蔣系が上疏して論じたが取り上げられなかった。仲郢は「聖王が憲を作るには殺人には必ず死をもって処す定めがあり、聖明が上にあるなら官は法を壊す臣であってはなりません。今、秀才は殺人の罪を犯し愚臣は監決の任を担っています。この賊が死を免れれば典章を乱すことになります。臣は至って微賎ですが、どうして職を怠ることができましょうか。秀才の処刑をまだ決行せず、別に勅の裁定を待ちたく存じます」と上奏した。詔で御史蕭傑に監督させることとなったが、傑もまた上奏して抗議した。帝は結局京兆府に処刑を執行させ監督は用いなかった。しかし朝廷はその法の遵守を嘉した。
- 会昌中、三度昇進して吏部郎中に至り、李徳裕も大いにその才を認めた。武宗が冗官を減らす詔を出した際、吏部は天下の州府に牒を送り定員外の官員を調べようとした。仲郢は「諸州は毎冬欠員を報告するのに、どうして牒を送る必要がありますか」と述べ、これにより不正な人事の道が一気に塞がれた。仲郢は十日ほどで整理し千二百人を削減し、当時の評判は満足のいくものであった。諫議大夫に遷った。
- 五年(845年)、淮南で呉湘の獄が起こり御史崔元藻が再調査して罪に問われた。仲郢は上疏してこれを弁護し、人々は皆その身を危ぶんだが、徳裕はその公正さを知りますます重んじた。武宗が望仙台を築くと仲郢はしばしば上疏して切実に諫めた。帝は召して「たまたま旧跡を修築しただけだが、卿の忠言には恥じ入る」と述べた。徳裕は京兆尹に奏請し、謝恩の日に仲郢は「下官は太尉(徳裕)の恩賞がここまで及ぶとは思ってもみませんでした、この厚徳に報いるため、奇章(牛僧孺)の門下に劣らぬよう努めます」と述べた。徳裕はこれを嫌疑とは思わなかった。当時仏法が廃され銅像が銭に鋳造されていた。仲郢は京畿鋳銭使として、銭工が鋳型に「新」の字を加えようとしたのを止めたが、淮南だけは「新」の字を加え、後にこれが僧人に奪われ仏像や鐘磬に作り直された。紇幹皋が甥の劉詡が母を殴打したと訴えた。詡は禁軍の小校であったが、仲郢は上奏の許可を待たず杖で殺した。北司に讒言され右散騎常侍に改まり権知吏部尚書銓事となった。
- 宣宗即位後、徳裕が宰相を罷免されると仲郢は鄭州刺史に出された。周墀が江西から滑台に鎮を移した際、鄭州を通過し領内が治まっているのを見て大いに評価した。まもなく墀が朝廷に入り政を輔佐すると、仲郢は河南尹に遷った。着任一月余りで戸部侍郎に召された。まもなく墀が政務を罷免された。同僚の中に仲郢が墀と親しいことを疑う者があり秘書監に左遷された。数か月後、再び河南尹に出された。寛大な恵政を旨としたが、意見する者はこれを京兆の政と違うと言った。仲郢は「都の下では取り締まりを第一とし、郡邑の統治は恵み養うことを本とする、どうして同じでなければならないのか」と述べた。
- 大中年間、梓州刺史・剣南東川節度使に転じた。孔目吏の辺章簡という者が財貨で権幸に取り入り、前後の廉察使もどうすることもできなかった。仲郢は事に乗じて処刑し、管内は粛然として法を執行するまでもなく自ら治まった。鎮に在ること五年、美事が広まり吏部侍郎に召された。朝廷に入り謝恩前に兵部侍郎に改まり諸道塩鉄転運使を兼ねた。
- 大中十二年(858年)、使を罷免され刑部尚書を守った。咸通初、兵部に転じ金紫光禄大夫・河東男を加えられ食邑三百戸を得た。まもなく興元尹・山南西道節度使に出た。鳳州刺史盧方乂が軽い罪で部下を杖刑に処し数日で死なせた事件があった。妻が訴え出て他の役人も引き合いに出したため多くが獄に繋がれた。仲郢は妻を召し「刺史が軽い罪で人を戒めたが、本来死刑にあたるものではなく、実際は病死だ」と述べ、方乂を百日分の俸給の罰にとどめ拘束された者は皆釈放し、郡人はこれに深く感謝した。贓罪の役人を処罰しすぎたことにより太子賓客・東都分司となった。一年余り後、虢州刺史となった。数か月後、検校尚書左僕射・東都留守。祖先の墓を盗掘されると官を棄てて華原に帰った。華州刺史に任じられたが拝命せず、数か月後、本官のまま鄆州刺史・天平軍節度観察等使とされ、節鉞を華原の別荘で受け、鎮で没した。
- 以前、仲郢が諫議大夫を拝命して以来、昇進のたびに烏の群れが升平里の邸に大集合し、庭木や戟架がすべて烏で埋まり五日ほどで散じるということが続いた。詔が下ると烏が集まらないことがあり、家人はこれを凶兆と考えたが、天平の任命だけは烏が集まらなかった。
- 仲郢は礼法を厳しく重んじ気節と義を重んじ、李徳裕の恩に深く感じていた。大中朝、李氏に禄仕する者がいなかった。仲郢が塩鉄を領していた頃、徳裕の兄の子の従質を推官に取り立て蘇州院事を知らせ、俸禄で徳裕の南宅(家族)を援助させた。令狐綯が宰相となるとこれを快く思わなかった。仲郢は綯に書を送り自らの立場を明らかにし、その要点は「任安が去らなかったことは昔の人(司馬遷が獄中の任安に責任を負ったこと)に自ら恥じ入るところですが、呉が自ら裁いた(自殺した)ことも今日にどう役立つでしょうか。李太尉(徳裕)が長く責を受けその家は既に空しく、祭祀も絶えたことは実に痛ましいことです」というものであった。綯はこれに深く感じ入り、まもなく従質に正員官を与えた。
- 仲郢は礼法を自ら守り、私邸にあっても拱手を欠かさず内室でも束帯を欠かさなかった。三度大鎮を治めながら厩には名馬なく衣に香を薫らせなかった。公務を退くと書物を広げ昼夜を分かたず読んだ。『九経』『三史』を一度ずつ書写し、魏晋以来の南北の史書は二度書写し、自ら分類して抜き出したものを三十巻にまとめ『柳氏自備』と名付けた。また仏典にも精通し『瑜伽論』『大智度論』はいずれも二度書写し、その他の仏書も多くを自ら要義を記した。小楷は精緻で一字たりとも粗略に書くことがなかった。『尚書二十四司箴』を著し、韓愈・柳宗元はこれを深く評価した。文集二十巻がある。子は珪・璧・玭。
仲郢の子・柳珪
- 珪、字は鎮方、大中五年(851年)進士に及第し幕府に度々招かれたが早世した。
仲郢の子・柳璧
- 璧は大中九年(855年)進士に及第した。文の格調は高雅であった。かつて『馬嵬詩』を作り詩人の韓琮・李商隠がこれを評価した。馬植が陳許を鎮すると掌書記に招かれ、さらに植に従い汴州に赴いた。李瓚が桂管を鎮すると観察判官に奏請された。軍政が意に添わず璧が強く諫言しても聞き入れられず、袂を払って去った。桂府はまもなく乱れ、璧は右補闕として朝廷に入った。僖宗の蜀行幸に際し翰林学士に召され諫議大夫に累進しその職に就いた。
仲郢の子・柳玭
- 玭は両経科に応じ秘書正字に初任した。さらに書判抜萃科に及第し高湜に度支推官に招かれた。一年余り後、右補闕を拝命した。湜が沢潞に出鎮すると節度副使に奏請された。朝廷に入り殿中侍御史となった。李蔚が襄陽を鎮すると掌書記に招かれた。湜が再び沢潞を鎮すると再び副使となった。朝廷に入り刑部員外となった。湜が反乱した将に追放され高要尉に貶されると、玭は三度上疏して弁護した。湜はその上疏の草稿を見て「私が自ら弁明してもここまでは及ばない」と嘆じた。まもなく広州節度副使に出た。翌年、黄巣が広州を陥落させると郡の人鄧承勲が小舟で玭を乗せ難を逃れさせた。起居郎に召された。賊が長安を陥落させると刃で傷を負い行在に逃れ、諫議・給事中を歴任し官は御史大夫に至った。
- 玭はかつて書を著し子弟を戒めた。
- (柳玭の戒めの要旨)家柄が高いことは畏れるべきものであって頼るべきものではない。畏れるべきというのは、身を立て行いを慎む中で一つでも先祖の教えに反するところがあれば、その罪は他人よりも大きくなるからである。生きて名声地位を手に入れられたとしても、死んで地下の祖先にどう顔向けできようか。頼るべきでないというのは、家柄が高いと自ら驕りやすく、一族が盛んであれば人に妬まれやすいからである。実質ある才能と美徳があっても人は必ずしも信じず、わずかな瑕疵や過ちがあれば多くの人が指さして非難する。だからこそ家柄を継ぐ者は、修養を怠らず学問に励まねばならない。人は無能でありながら他人に用いられることを望み、善行もないのに他人に愛されることを望み、それが叶わないと「自分は時流に恵まれない、時は賢者を急いでいない」と嘆くが、これは種を粗末に蒔いた農夫が雨露の恵みがないと天を怨むようなもので、飢えを免れられるはずがない。
- 私は幼い頃から先祖の教えを聞き家法を学んできた。身を立てるには孝悌を基とし、恭しく寡黙を本とし、慎み深さを務めとし、勤勉倹約を法とし、交際は末事とし、気概や義侠を装う者を凶人とみなす。家を富ませるには忍耐と従順によって、交わりを保つには簡素と敬意によって。あらゆる行いを備えてもなお身の至らなさを疑い、口を慎んでもなお言葉の過ちを恐れる。知識を広く求めても及ばぬように、名声を求めても偶然のもののように扱う。物惜しみと驕りを去れば過ちも減るだろう。官にあっては自らを清くし事を省くことが法を守ることの前提であり、法を守ってこそ民を養うことが言える。剛直であっても禍を招かず、廉潔であっても名声を売らない。俸禄は少なくとも民の血汗の結晶を軽々しく扱ってはならず、鞭を用いる時も狭量な感情のままに振るってはならない。憂いと福は共存せず、清廉と富裕は両立しない。名門の子孫を見るに、その先祖が正直に官に仕え硬骨で毅然としていたのに、家が衰えると目上に逆らうことだけを好みほかに能がなくなる例がある。逆に先祖が謙虚に身を処し柔和に身を保って禍を遠ざけたのに、家が衰えると凡庸になり何を拠り所とすべきかも分からなくなる例もある。この差はわずかなもので、賢者でなければ見抜けない。
- 名を汚し身を損ない祖先を辱め家を滅ぼす、その過失の特に大きいものが五つある、深く心すべきである。第一に、安逸を求め淡泊さを厭い、自分の利益のためなら人の言葉を顧みないこと。第二に、儒学を知らず古の道を喜ばず、経書に暗くても恥じず、当世を論じては得意げになり、自分に知識がないのに人が学問を持つことを嫌うこと。第三に、自分より優れた者を疎み、へつらう者を喜び、ただ戯言を楽しみ古の道を思わず、人の善を聞けば妬み、人の悪を聞けば言いふらすこと。これが積み重なれば徳義が損なわれ、身なりは整っていても使用人と変わらなくなる。第四に、放蕩な遊びを好み酒に溺れ、杯を傾けることを高尚とし勤勉を俗物とみなす、これに慣れれば身を持ち崩し気づいた時には悔いても遅い。第五に、名声や官位を急ぎ権勢者に近づく、わずかな地位を得ることはあっても衆人の怒りと猜疑を買い長続きする者は稀である。この五つの過ちは腫れ物よりも治りにくい。腫れ物なら石鍼で治せるが、この五つの過ちは名医でも治せない。前賢の戒めは書物に残されており、近代の失敗も見聞きするところである。
- 中程度の人は文を修め学問に励んでも、焦って昇進を急ぎ失うことを恐れ自分の才を発揮しようとする。あるいは天命を慎み退くことを知る者は学業が荒れ文章も粗雑になり見るべきものがない。ただ上智の者だけが思慮を研ぎ澄まし見聞を広め習練を固め業を精にし、用いられれば行い、用いられなければ隠れる。もしこれと異なるなら、どうして君子と言えようか。
- 以前、公綽の家の統率は非常に厳格で、子弟はよく戒めの教えを守り、家法を語る者は世に柳氏の名を挙げた。
公綽の弟・柳公権
- 公権、字は誠懸。幼くして学を好み、十二歳で辞賦を作れた。元和初、進士に及第し秘書省校書郎に初任した。李聴が夏州を鎮すると掌書記に招かれた。穆宗即位後、朝廷に上奏に赴くと帝は召見し「私は仏寺で卿の筆跡を見て、長く思い続けていた」と述べた。その日のうちに右拾遺を拝命し翰林侍書学士を兼ねた。右補闕・司封員外郎に遷った。穆宗の政が偏っていた頃、帝が公権に「筆はどうしてこう見事なのか」と問うと「筆の用いようは心にあります、心が正しければ筆も正しくなります」と答えた。帝は表情を改め、これが筆を用いた諫言であることを悟った。穆宗・敬宗・文宗の三朝を歴任し禁中で侍書を務めた。公綽が太原にいた際、宰相李宗閔に書を送り「私の弟は文才で苦心してきましたが先朝は侍書として用い、これは工人や祝官と同列のようで内心恥じております、閑職への異動を願います」と述べた。右司郎中に遷り、司封・兵部の二郎中、弘文館学士を歴任した。
- 文宗はかつて公権を思い出し再び侍書に召し、諫議大夫に遷った。まもなく中書舎人に改まり翰林書詔学士を兼ねた。浴堂での対問のたびに何度も灯火を継ぎ足すほど話は尽きず、宮人は蝋の涙を紙にこすりつけて灯を継いだ。未央宮への行幸に随行した際、苑の中で輦を止め公権に「私に一つ嬉しいことがある、辺境の衣賜がずっと遅れていたが、今年二月に春の衣を給し終えた」と述べた。公権が祝いの言葉を述べようとすると、帝は「ただの祝いでは物足りない、卿は詩で祝ってくれ」と述べた。宮人が急かすと公権はすぐに「去歳雖無戦、今年未得帰。皇恩何以報、春日得春衣。」(昨年は戦こそなかったが今年もまだ帰れていない、皇恩にどう報いようか、春の日に春の衣を得た)と詠んだ。帝は喜び長く称賛した。便殿で六人の学士と対問した際、帝が漢の文帝の質素倹約の話に及び、袂を挙げて「これは三度洗濯したものだ」と述べると、学士たちは皆帝の倹約の徳を讃えたが、公権だけは何も言わなかった。帝が留めて理由を問うと「君主たる者は賢良を進め不肖を退け、諫言を聞き入れ賞罰を明らかにすべきです。洗濯した衣を着ることは小さな節にすぎません」と答えた。同席した周墀はこれに震え上がったが、公権の言葉は動じなかった。帝は「舎人が諫議を務めるべきではないと十分承知していたが、卿の発言には諫臣の風格がある、諫議大夫に改めて授ける」と述べた。翌日、制が下り諫議大夫として知制誥を務め学士も従前通り兼ねることとなった。
- 開成三年(838年)、工部侍郎に転じその職に留まった。かつて対問に入った際、帝が「近ごろの世評はどうか」と問うと、公権は「郭旼が邠寧に任命されたことについて世論には賛否があります」と答えた。帝は「旼は尚父(郭子儀)の従子で太皇太后の末の叔父にあたり官にあって過ちはない。金吾大将軍から邠寧という小さな鎮に任じただけなのに、なぜ議論の対象になるのか」と述べた。公権は「旼の勲功と徳望からすれば鎮を任じるのは適切です。しかし世間の議論は、旼が二人の娘を宮中に入れたためこの任命を得たと言っています、これは事実でしょうか」と述べた。帝は「二人の娘は太后に仕えるために入宮したのであって献上したものではない」と答えた。公権は「瓜田李下の疑いは、どうして人々に理解させられましょうか」と述べ、王珪が太宗を諫めて廬江王の妃を出させた故事を引いた。帝はすぐに南内使張日華に二人の娘を旼のもとへ返させた。公権の忠言による匡正はすべてこのようなものであった。学士承旨に累進した。
- 武宗即位後、内職を罷免され右散騎常侍を授けられた。宰相崔珙が集賢学士・判院事に用いた。李徳裕は元来公権を厚遇していたが、珙の推薦によるものと知り不快であった。太子詹事に左遷され賓客に改まった。金紫光禄大夫・上柱国・河東郡開国公に累進し食邑二千戸を得た。再び左常侍・国子祭酒となった。工部尚書を歴任した。咸通初、太子少傅に改まり少師に改まり、三品・二品の班にあること三十年に及んだ。六年(865年)に没した。太子太師を追贈された。享年八十八。
- 公権は初め王羲之の書を学び、近代の筆法をあまねく閲覧し、その体勢は勁く艶やかで一家をなした。当時公卿大臣の家の碑板で公権の筆によるものがなければ人は不孝と見なした。異民族の入貢者は皆別に財貨を用意し「これは柳の書を買うためのものだ」と言った。上都西明寺の『金剛経碑』は鐘繇・王羲之・欧陽詢・虞世南・褚遂良・陸柬之の書体をすべて備え、特に得意の作であった。文宗が夏の日に学士と聯句を作った際、帝が「人は皆炎熱を苦しむが、私は夏の日の長いのを愛する」と詠むと、公権が続けて「薫風自南来、殿閣生微涼」(南から薫風が吹き、殿閣に微かな涼を生む)と詠んだ。丁・袁ら五人の学士が皆続けて詠んだが、帝はひとり公権の二句だけを口ずさみ「言葉は澄み意は満ちている、多くは得難い」と評した。公権に殿の壁に書かせると、字は五寸四方あり、帝はこれを見て「鐘繇・王羲之が生き返ってもこれに勝るものはあるまい」と嘆じた。
- 大中初、少師に転じ謝恩の日、宣宗は殿に上らせ、御前で三枚の紙に書かせ、軍容使西門季玄が硯を捧げ、枢密使崔巨源が筆を進めた。一枚には楷書で十字「衛夫人伝筆法於王右軍」(衛夫人は筆法を王羲之に伝えた)、一枚には行書で十一字「永禅師真草千字文得家法」(永禅師の真草千字文は家法を得ている)、一枚には草書で八字「謂語助者焉哉乎也」(語助と謂う者は焉哉乎也)を書いた。錦彩・瓶盤等の銀器を賜り、自ら謝状を書かせ楷書・行書にこだわらぬよう命じ、帝はとりわけこれを珍重した。
- 公権は書の道に志を集中し家産を治めることができなかった。功臣・外戚の家の碑板を作り度々莫大な謝礼を受けたが、多くは蔵の管理を任せた海鴎・龍安という僕に盗まれた。別に酒器・杯・盂を一箱に蓄えていたが、封印は元のままで中身だけがすべて失われていた。海鴎を問い詰めると「なくなった理由は分かりません」と答えた。公権は苦笑して「銀の杯が羽化して飛び去っただけだ」と述べ、それ以上追及しなかった。大切にしたのは筆と硯と絵画のみで自ら鍵をかけて保管した。硯を評するに常に青州石末を第一とし墨が冷えにくいと述べ、絳州の黒硯を次とした。『左氏伝』『国語』『尚書』『毛詩』『荘子』にとりわけ精通した。一つの義を説くたびに必ず数枚分の文章を暗誦した。性格は音律に明るかったが音楽を奏することを好まなかった。常に「音楽を聞くと人を驕らせ怠らせるから」と述べていた。
公綽の伯父・柳子華
- 公綽の伯父の子華は、永泰初、厳武の西蜀判官となり成都令に奏請された。池州刺史に累進した。朝廷に入り昭応令となり府の東十三県の捕賊を知り、まもなく検校金部郎中・修葺華清宮使となった。元載が京兆尹に用いようとしたが拝命前に没した。自ら死期を知り予め墓誌を作った。人を見抜く明があった。公綽が生まれて三日目、これを見て弟の子温に「この子を大切に育てよ、我ら兄弟の福はこの子に及ばぬだろう、我が門を興すのはこの子だ」と述べた。これにより「起」を公綽の字とした。
- 子華には二子、公器・公度があった。
- 公度は養生に優れ八十歳を過ぎても足取りが軽やかであった。ある人がその術を尋ねると「私にはもともと術などない、ただ元気を喜怒に振り回されないようにしただけで、気海(丹田)が常に温かいだけだ」と答えた。官は光禄少卿にとどまった。
- 公器の子は遵。遵の子は璨。璨は宰相に至り、別に伝がある。