経歴
- 李虞仲、字は見之、趙郡の人。祖父の震は大理丞。父の端は進士に及第し詩に巧みであった。大暦中、韓翃・銭起・盧綸らと文詠を唱和し都下に名を馳せ「大暦十才子」と呼ばれた。当時郭尚父(郭子儀)の末子の曖が代宗の娘升平公主を娶り、賢明で才思に富み特に詩人を好んだ。端ら十人は多く曖の門下にあった。宴で詩を賦すたびに公主は簾の中から見物し、優れた詩には百縑を賞した。曖が任官の際、十人に「詩を先に詠んだ者に賞を与える」と述べた。端が最初に献じ、その警句に「薫香荀令偏憐小、傅粉何郎不解愁」(香を薫らす荀令は特に幼子を愛し、白粉を付ける何郎は愁いを知らない)とあった。公主は直ちに百縑を賞した。銭起は「李校書には確かに才があるが、この作はあらかじめ用意していたものだろう。一韻を賦してこれを正させたい、私の姓を韻に用いさせてほしい」と述べた。端は即座に紙を折って「方塘似鏡草芊芊、初月如鉤未上弦。新開金埒教調馬、旧賜銅山許鋳銭。」(方形の池は鏡のように草が青々と茂り、初月は鉤のようでまだ弦にならぬ。新しく金の埒(馬場)を開いて馬を調教させ、旧く銅山を賜って銭を鋳させる)と詠み、埒(羅列するの意)の中に「起」の音を含む言葉遊びで応じた。曖は「これはさらに巧みだ」と述べ、起らも初めて服した。端は校書郎から病を理由に江南に退き、杭州司馬を授けられて没した。
- 虞仲もまた詩に巧みであった。元和初、進士に及第し、さらに制策にも及第し弘文校書を授けられた。荊南に従事し朝廷に入り太常博士となり、兵部員外・司勛郎中に遷った。宝暦中、制策の採点にとりわけ精緻さを発揮し兵部郎中知制誥に転じ中書舎人を拝命した。太和四年(830年)、華州刺史・御史大夫に出た。朝廷に入り左散騎常侍・秘書監を兼ねた。八年(834年)、尚書右丞に転じた。九年(835年)、兵部侍郎となり、まもなく吏部に改まった。開成元年四月(836年)に六十五歳で没した。
- 虞仲は簡素で欲少なく、性格は端正優雅で、代々文学を伝える家柄でありながら顕達しても驕らず、士友に重んじられた。