経歴
- 崔弘礼、字は従周、博陵の人。北斉の崔懐遠の七代の孫。祖父の育は常州江陰令。父の孚は湖州長城令。弘礼は容貌が堂々として大志があった。進士に及第し幕府に度々仕え侍御史に至った。
- 元和中、呂元膺が東都留守となると弘礼を従事とした。当時淮西の呉少陽が死去したばかりで呉元済が兵を構えて命に逆らい、山東の反抗的な者たちがこれに呼応し、東で李師道と結んで東洛を襲撃し朝廷を脅かそうと謀っていた。弘礼は元膺のために策を練り兵を配置して東都を固め、結局何事もなかった。汾州・棣州刺史に累任した。田弘正が入朝を願い出た際、副使の設置を求め、弘礼は衛州刺史・魏博節度副使を授けられ鄭州刺史を歴任した。長慶元年(821年)、劉総が入朝し張弘靖が范陽に鎮を移すと、弘礼は検校左散騎常侍を加えられ幽州盧龍軍節度副使を務めることとなった。境に至らないうちに幽州・鎮州で兵乱が起こり絳州刺史に改まった。翌年、汴州の李絺が反乱すると急ぎ弘礼を河南尹・御史大夫・東都畿汝都防禦副使に召還した。絺平定後、河陽節度使に遷った。武備を整え軍備を大いに強化した。さらに秦渠の下流に荒地三百頃を開墾し年に粟二万斛を収穫できるよう上言し、詔ですべて許可された。病により後任への交代を度々上表した。数年後、検校戸部尚書・華州刺史を拝命した。折しも天平軍節度使烏重胤が没し朝廷は後任に苦慮し、再び弘礼を天平軍節度使とし詔でその日のうちに駅馬で鎮に赴くよう命じた。
- 文宗即位後、検校左僕射を加えられた。鄆州を治めること三年、東都留守に改まり刑部尚書に遷った。詔で朝廷に召されたが病のため至らなかった。太和四年十月(830年)、再び留守に任じられた。この年十二月に六十四歳で没した。司空を追贈された。
- 弘礼は若い頃、卓越した気概を自負していた。兵書に精通し軍事の要諦に心を留め、これにより度々選ばれ用いられ藩鎮を歴任した。赴任地で特筆すべき功績はなかったが、日頃から施設の整備には長けており、また蓄財に巧みで世論はこれを軽んじた。