舊唐書卷一百六十三 列傳第一百十三 胡証

胡証、字は啓中、河東の人(?―828年)。振武軍節度使として辺境を鎮め、太和公主の回紇降嫁に際しては和親使を務め漢の礼を守り通した。晩年は蓄財と豪奢を好んだが、没後、子の溵が李訓の事件に連座して家財を失い殺害された。

年表(5件)

経歴

  • 胡証、字は啓中、河東の人。父の瑱、伯父の玫はいずれも進士に及第した。証は貞元中に続いて及第し、咸寧王渾瑊に河中従事として招かれた。殿中侍御史から韶州刺史を拝命したが、母が高齢で遠方に赴けないため太子舎人に改まった。襄陽節度使于頔に掌書記に招かれ検校祠部員外郎となった。
  • 元和四年(809年)、侍御史から左司員外郎・長安県令・戸部郎中を歴任した。田弘正が魏博を朝廷に帰属させると副官の設置を求め、証は御史中丞を兼ね魏博節度副使となり左庶子も兼ねた。朝廷に入り左諫議大夫に遷った。
  • 九年(814年)、党項が辺境を侵すと、証に辺境を安んじる才略があるとして単于都護・御史大夫・振武軍節度使を授けられた。前任の将帥は統率の才がなく辺境の事務が滞っていたため、朝廷は特に証を用いて鎮めさせた。十三年(818年)、金吾大将軍に召され従前通り御史大夫を兼ねた。十四年(819年)、京西・京北巡辺使を兼ね、その利害を調べて上聞した。
  • 長慶元年(821年)、太和公主が回紇に降嫁する際、詔で本官のまま検校工部尚書を兼ね和親使を務めた。旧制では使者が国境を出る際、私的な贈答の礼があったが官がこれを賄えず、富家の子弟から使者への出資を募って官職を授ける慣習があった。証が出立する際、真っ先にこの慣習の改革を求め、倹約に努めて費用を削減し官職を売る道を断った。漠南に至ると異民族の騎兵が次々に現れ、狼のような心と犬のような態度で日々様々な要求を突きつけ、公主に華服を胡服に着替えさせようとしたり、公主を近道で急がせようとしたりした。証は志を曲げず漢の礼儀を守り異民族の風習を退け、決して君命を辱めなかった。使命を終えて戻ると工部侍郎を拝命した。
  • 敬宗即位当初、検校戸部尚書として京兆尹を守った。数か月後、左散騎常侍に遷った。宝暦初、戸部尚書・判度支を拝命したが、上表して辞退し地方の任を望んだ。二年(826年)、検校兵部尚書・広州刺史・嶺南節度使を拝命した。太和二年(828年)、病を理由に京師への帰還を上表した。この年十月、嶺南で没した。享年七十一。朝を一日廃し左僕射を追贈された。
  • 広州には海の利があり財貨が続々と集まった。証は蓄財に優れ豪奢を好み自らを厚く養い、童僕数百人を抱え京城の修行里に邸を建て街並みに連なるほどであった。嶺表の珍しい財貨が絶えず道を行き来し、京邑では富家として推された。証は元来賈餗と親しく、李訓の事件が失敗すると禁軍がその財を狙い証の子の溵が餗を匿っていると称して家を破壊した。一日のうちに家財はすべて失われた。軍人は溵を捕らえ左軍に連行し、仇士良は斬って見せしめにするよう命じた。当時溵の弟の湘は太原従事であったが、突然白昼に首のない緑衣の者が血を流しながら室に入る幻を見て不吉に思った。翌日、溵の凶報が届いたが、湘は難を免れた。