舊唐書卷一百六十三 列傳第一百十三 孟簡
孟簡、字は幾道、平昌の人(?―823年)。詩に巧みで仏典にも通じた文人官僚。王承宗討伐を諫めて常州刺史に左遷されたが治水に功を挙げた。晩年、腹心の役人を殺害した事件と贓罪が発覚し貶謫を重ねた。
経歴
- 孟簡、字は幾道、平昌の人。則天武后の時代の同州刺史孟詵の孫。詩に巧みで名を知られた。進士に及第し宏詞科にも登り倉部員外郎に累進した。戸部侍郎王叔文が政を専断した際、簡はその配下でありながら多くをこれに与しなかった。叔文はこれを大いに憎んだが排斥するには至らなかった。まもなく司封郎中に遷った。元和四年(809年)、諫議大夫に抜擢され知匭事を務めた。簡は仏典に明るかった。六年(811年)、詔で給事中劉伯芻・工部侍郎帰登・右補闕蕭俛らとともに醴泉仏寺で『大乗本生心地観経』の翻訳にあたり、簡が最もその理に通じていた。
- 王承宗が反乱した際、詔で吐突承璀を招討使とすることが決まると、簡は上疏してこれに反対し激しい言葉を用いたため常州刺史に出された。八年(813年)、金紫光禄大夫を加えられた。簡は着任すると古い孟瀆を開き、長さ四十一里、肥沃な土地四千余頃を潤し、廉察使にその功績を挙げられ加官の命があった。この年、給事中に召還された。九年(814年)、越州刺史・御史中丞・浙東観察使に出た。李遜が士族を抑え庶民を放縦にさせた後を受け、簡が政をとると全て逆にしたため、農民や商人の多くがかえって弊害を受け、当時両者ともに適切とは言えないと評された。十二年(817年)、戸部侍郎として朝廷に入った。十三年(818年)、崔元略に代わり御史中丞となり戸部侍郎も兼ねた。この年、襄州刺史・山南東道節度使に出された。十四年(819年)、勅で谷城県に牧場を置くこととなり「臨漢監」と名付けられ、簡がその使を兼ねた。簡は均州鄖郷県の鎮遏使趙潔を本県令に充てるよう奏請したが、台司はこれが刑典に反すると上奏し俸給一月分が罰せられた。この年、太子賓客に改まり東都に分司した。十五年(820年)、穆宗即位後、吉州司馬員外置同正員に貶された。
- 以前、簡は襄陽にあった際、腹心の役人陸翰を上都進奏の役に置き宦官との連絡を委ねていた。翰は簡の秘事を握り次第に制御できなくなった。簡は怒り州に連れ戻し土嚢で殺害し口封じを図った。翰の子弟が闕に赴き訴状を出し冤罪を訴えるとともに簡の贓罪を告発した。御史台が調査すると簡が吐突承璀に贈った銭帛等が合わせて七千余貫匹に及んだことが判明し事は明白であったため再び貶された。長慶元年(821年)の大赦で睦州刺史に量移された。二年(822年)、常州刺史に移った。三年(823年)、太子賓客として朝廷に入り東都に分司した。その年十二月に没した。
- 簡は俊敏で義を重んじた。若い頃に亡くなった友人の孤児を厚く援助することが多く、世論は先輩の風があると評した。しかし仏教に耽溺し儒者たちに批判された。