経歴
- 盧士玫、山東の名門で文儒により進んだ。性格は端正で人と争わず日頃から評判が良かった。初め吏部員外郎となり職務に適し、郎中・京兆少尹に転じた。憲宗の山陵の際、刑罰を簡素にし事を成し遂げ、当時その才を推され権知京兆尹事となった。折しも幽州の劉総が兵権を離れ入朝を願い出て張弘靖を自分の後任にするよう求めた。さらに瀛州・漠州の二州を分割し士玫を帥とするよう求め、朝廷はすべてこれに従った。士玫は検校右常侍を授けられ瀛・漠両州都防禦観察使を兼ねた。
- まもなく幽州で乱が起こり賓佐が害され弘靖が拘束され裨将朱克融が軍務を掌り、瀛・漠に兵を送って襲わせた。朝廷は防禦の名では凶逆に抗するに不十分と考え、その日のうちに士玫を検校工部尚書・瀛漠節度使に任じた。士玫も家財をすべて出して軍用に充て、反乱軍を数か月にわたり堅く拒んだ。しかし結局官軍の救援が届かず、瀛漠の兵の多くが幽州に親族を持っていたため、部下が密かに克融の軍を導き城は陥落した。士玫とその従事らは拘束され幽州に送られ賓館に幽閉された。朝廷が克融の罪を赦すと、士玫はようやく東洛に帰ることができた。まもなく太子賓客を拝命し洛陽に留司し、まもなく虢州刺史に改まり再び賓客となった。宝暦元年七月(825年)に没した。工部尚書を追贈された。