経歴
- 鄭権、滎陽開封の人。進士に及第し涇原従事に初任した。節度使劉昌符が重病になり入朝を願い出た際、軍情の変化を恐れ、権が寛厚で衆を容れる人柄であることから留守の任を主宰させた。昌符が旅立つと兵は果たして反乱した。権は身を挺して白刃の中に入り、逆順の理を説いて対抗した。その結果乱の首謀者数人を殺し三軍は畏敬して服した。徳宗はこれを聞いて嘉した。当時天子は用兵を厭い、藩鎮の将吏で軍情を得た者はしばしば官爵を飛び越えて授けられた。試衛佐から行軍司馬・御史中丞に抜擢された。朝廷に入り倉部郎中となり河南尹に累進した。十一年(816年)、李遜に代わって襄州刺史・山南東道節度使となった。十二年(817年)、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使に転じた。十三年(818年)、徳州刺史・徳棣滄景節度使に遷った。
- 当時朝廷は李師道討伐の用兵を行っており、権は徳州・棣州の兵で前線に臨んだ。平原・安徳二県の間に帰化県を設置し降伏した民を集めるよう上奏した。滄州刺史李宗奭は権と不和で何事も命に従わなかった。権がこれを上奏すると帝は中使を遣わし宗奭を召還させようとした。宗奭は州兵に自分を留めるよう仕向け、乱を恐れて郡を離れられないと上言したが、朝廷は烏重胤を横海の鎮に任じ権に代えて帰朝させた。滄州の将吏は恐れ共に宗奭を追放した。宗奭は京師に逃げ帰ろうとしたが、詔で悖慢の罪により独柳の刑場で斬られた。弟の宗爽は汀州に長流された。権は邠寧節度使を授けられた。折しも天徳軍使が宗奭の冤罪を訴える上奏をしたが、権に誣告され、権は原王傅に降された。まもなく右金吾衛大将軍に遷り左街使を兼ねた。
- 穆宗即位後、左散騎常侍に改まり回鶻への告哀使を兼ねた。遠方への使行を憚り足の病を理由に辞退したが許されず、輿に乗って行くこととなった。権は器量堂々として弁舌に優れていた。虜廷に着くと虜主と是非を争い言葉は激しく壮んで、可汗はこれを深く敬異した。
- 長慶元年(821年)、使命を終え戻った。河南尹に出て工部侍郎として朝廷に入り本曹の尚書に遷った。家族が多く俸給が不足していたため鎮守の職を求め、一月ほどで検校右僕射・広州刺史・嶺南節度使を授けられた。以前、権が出鎮する際、宦官の助けがあった。南海には珍しい宝物が多く、権は多くを蓄えて宦官に贈り朝士に大いに嘲笑された。四年十月(824年)に没した。