舊唐書卷一百六十二 列傳第一百十二 李翛

経歴

  • 李翛、出自は不明。貧しい身分から起こり、荘憲皇太后の妹婿となったことから元和以来急速に官途を進んだ。恩沢により坊州・絳州刺史に至った。特に才があるわけではなく性格は繊細で人に取り入るのが巧みであった。常に厨房や接待を飾り立て往来する中使や禁軍中尉の賓客をもてなし評判を求めた。民を治め政務に当たっては多少の政治手腕があった。帝はこれを才ありと見て司農卿に召し京兆尹に遷った。
  • 十年(815年)、荘憲太后が崩じると翛は山陵橋道置頓使となった。才を頼み費用を惜しみ、何事も削減した。霊柩が灞橋の頓(休憩所)に至った際、随行の官吏の多くが食事を得られなかった。渭城の北門に至ると門が壊れた。以前、橋道司が渭城北門の改築を求めたが費用は銭三万かかると見積もられ、翛は浪費を理由に許さず深く軌道を掘って霊柩を通そうとした。土を深く掘ったため両脇の柱が浮き、そのため頓所が壊れ、霊柩を運ぶ轀輬車があと数歩というところであった。初めは城の東北の垣を壊して霊柩を通そうとしたが、宦官たちがこれに反対したため霊柩を停め、壊れた門の土木を片付けてから進んだ。翛は恐れ轀輬車の軸が折れたと偽って上奏したが、山陵使李逢吉は御史に車軸を封印させ、陵から戻ると翛の罷免を求める上奏をした。帝は用兵で財賦を集める必要があったことと翛の前後の進奉を考慮し咎めず俸給を罰するのみとした。逢吉がその罪を強く訴えたため銀青の位階を削られた。翌日、再び金紫を賜った。以後、朝廷の端正な士人の多くが讒言を受け、義士は皆これに憤慨した。当時野に長く軍を駐屯させていたが兵糧の輸送が滞っていた。浙西は重要な鎮で豊かな地として知られ、翛を潤州刺史・浙西観察使とし財貨を集めさせた。淮西での用兵は大いにこの資金に頼った。十四年(819年)、病を理由に京師への帰還を願い出たが、参内する前に没した。