経歴
- 王遂、宰相王方慶の孫。吏務の能力で時に知られた。特に利益を興すことに優れ部下の統率に鋭く法は厳格であった。鄧州刺史に累進。銭穀に明るく太府卿として朝廷に入った。潘孟陽が判度支となった際、遂と私的な確執があり互いに争論した。遂は西北供軍使となり営田策が不便であると孟陽と会議で対立し、それぞれ対問を願い出た。帝は怒りいずれとも会わず、遂は柳州刺史に出された。遂の腹心の役人韋行素・柳季常が両池務での課料を求めたが、遂が務を罷免されると季常らは役人に誣告され杖四十を科せられた。遂の柳州刺史の制が下ると、左丞呂元膺は「遂は役人の任命で贓罪を犯し法により連座すべきです。除官の制には『清能業官』とありますが、遂の犯した罪状からすれば『清』の字はふさわしくありません。柳州は大郡であり刺史として赴くのは優遇にあたります。謹んで制書を封じ返します」と上奏した。帝は諭して行かせた。数年後、淮西での用兵が始まった。天子は財政に明るい官吏を求めて財賦を集めようとし、遂の有能さを知り宣州刺史・宣歙観察使に用いた。淮西・蔡州平定後、朝廷軍が東方を討伐する際、光禄卿に召され淄青行営諸軍糧料使を兼ねた。光禄卿の職掌は祭祀に関わるため検校左散騎常侍・御史大夫に改まった。
- 以前、軍を発した当初は年間の兵糧計算が三百万石であった。鄆州の賊が誅殺されると遂は羨余(余剰)百万を進上し、帝はその能力を評価した。当時師道の管轄していた十二州を三鎮に分割し、遂を沂州刺史・沂兗海等州観察使とした。
- 遂は性格が狷介で怒りっぽく大局を顧みなかった。軍州の民や役人は長く悪習に染まり多くが荒々しかったが、遂はしばしば公事にかこつけて将卒を「反虜」と罵倒し、将卒はその屈辱に耐えかねた。牙将王弁は人心の怨みに乗じ、十四年七月(819年)、遂がまさに宴を開いていた際、弁は徒党を集めて騒ぎ席で遂を殺害し、判官張実・李甫らも同時に殺害された。曹華が遂に代わって鎮に着くと、乱の首謀者王弁らをすべて捕らえ処刑した。
- 遂は器量が広くなく財を集めることに偏り、民を撫でる才ではなかった。ただ厳しい刑罰で乱れた風俗を取り締まった。その定めた笞杖の刑は常の制度を上回るものであった。遂の死後、監軍使がその杖を封印して進呈した。帝はこれを朝廷に示させ廉察使への戒めとした。