舊唐書卷一百六十一 列傳第一百十一 劉沔
劉沔、許州の牙将出身。李光顔に従い淮西討伐で活躍し、のち振武・太原などを鎮め回鶻を撃退し太和公主を迎え戻すなど辺境防衛で功績を挙げた将軍。会昌年間、劉従諫の子稹の反乱鎮圧にも当たった。
経歴
- 劉沔、許州の牙将であった。若くして李光顔に仕え帳中の親将となった。元和末、光顔が呉元済を討伐する際、常に沔を先鋒とした。蔡州の将に董重質という者がおり洄曲を守り、その部下は騾馬に乗って戦い「騾子軍」と呼ばれ最も精強で、官軍は常にこれを警戒した。沔は驍勇で騎射に優れ、騾子軍と交戦するたびに刃を冒して堅陣に突入し捕虜と首級を挙げて戻ったため、忠武の軍の中で賊を破ること随一であった。淮西・蔡州平定後、光顔に従い朝廷に入った。憲宗は宿衛に留め三将軍を歴任させた。鹽州刺史・天徳軍防禦使を歴任し西北辺境でしばしば奇功を立てた。
- 太和末、河西の党項羌が反乱した。沔は天徳の軍でしばしばその酋長を誅し、振武節度使・検校右散騎常侍・単于大都護に移された。開成中、党項雑虜が河西を大いに乱した。沔は吐渾・契苾・沙陀三部落等諸族一万人・馬三千騎を率い直ちに銀州・夏州に討伐に向かい大いにこれを破った。俘虜は万を数え、捷報を伝えて戻った。功により検校戸部尚書を加えられた。会昌初、回鶻の部族が飢饉に見舞われ烏介可汗が太和公主を奉じて漢南に食を求めてきた。杷頭峰を過ぎ雲・朔・北川を侵した。朝廷は太原が重要な地で諸戎を扼する要地であることから、沔を河東節度使・検校尚書左僕射・太原尹・北京留守に移した。詔で幽州の張仲武と協力して回鶻を招撫させ、結局賊を破り公主を宮に迎え戻した。功により検校司空に進み、まもなく滑州刺史・義成軍節度使に改まった。
- 四年(844年)、潞州の帥劉従諫が没しその子稹が喪を隠して留後の職を擅にし節鉞を要求した。武宗は怒り忠武節度使王宰・徐州節度使李彦佐らに潞府西南面招撫使を命じた。さらに沔に太原節度使・潞府北面招討使を命じ直した。沔と張仲武は仲が悪く、幽州の徴兵の折に沔は鄭滑節度使に移され検校司徒に進んだ。まもなく病を理由に洛陽への帰還を願い出て太子太保を授けられ没した。
- 以前、沔が忠武の小校であった頃、李光顔に従い淮西を討伐し捉生将であった。前後の戦で賊と血戦し刃傷を受けほとんど死にかけたことが数度あった。かつて重傷を負い草むらに伏していた際、月もない暗闇で帰路が分からず気を失いかけたところ、夢で人から二つの燭を授けられ「お前はまさに大貴の相がある、この旅に禍はない、これを持って帰れ」と告げられた。目覚めて歩くと、前方に明るい二つの光があった。以後、賊を破り危難を乗り越えるたびにこの光が現れた。鎮を辞した後、この光は消えた。五年(845年)、李徳裕が地方に出鎮すると沔も太子太保を罷免された。翌年、太子太保として致仕し没した。