淮南の反乱を鎮めた老将
- 萬福、魏州元城の人。曾祖以来代々明経出身の家系だが、書生の道を好まず騎射を学んだ。十七、八歳で遼東従軍の功を挙げ、舒廬壽三州刺史・都團練使を摂った。租賦運搬が潁州で盗賊に奪われた際、軽兵で急襲し盗品を全て取り戻し、以前の被害者の妻子・財物・牛馬まで返還した(自ら帰れない者には船を給した)。
- 壽州刺史・淮南節度副使を正式に拝命したが節度使崔圓に忌まれ刺史を失い鴻臚卿へ、それでも副使として千人で壽州を守り恨まなかった。許杲の濠州駐留に対し摂濠州刺史として圧力をかけ撤退させ、舒州陥落時も刺史として盗賊を連破した。
- 大歴三年、代宗に召され「許杲の件で卿を煩わせる」と言われた際、萬福は「河北諸将が叛けば誰に任せるのか」と直言、代宗は「まず許杲を片付けてから重用する」と応じた。和州刺史・行営防禦使として楚州で暴れる許杲を追い、その部将康自勸の掠奪も追撃して討ち、奪われた財貨・婦女を持ち主に返還した。過分な恩賞を辞退し三分の一のみを受けた。
- 京西防秋の兵千五百を率いた際、揚州で交代の兵を受け取った折、節度使韋元甫の死で諸将に節度使就任を望まれたが「幸運を頼む人間ではない」と固辞し利州刺史として咸陽に留まり宿衛した。
- 李正己の反乱で江淮の漕運が埇橋・渦口で遮断された際、徳宗は萬福を濠州刺史に任じ「先帝が卿の名を『正』と改めたのは褒賞のためだが、賊が卿と気づかぬかもしれぬ」として「萬福」に戻し、渦口で自ら岸に立って進奉船を出航させ淄青兵を威圧して通過させた。泗州刺史転任後、魏州の飢饉に「魏州は我が郷里、救わずにいられぬ」と米百車を送り、身売りされた魏人を買い戻して帰した。
- 杜亞に忌まれ右金吾將軍として召還された際、徳宗は「杜亞は卿を老いぼれと言ったが、こんなに壮健とは」と驚き、凌煙閣への肖像掲示や度支からの生活費支給を命じた。陽城らが延英門外で座り込み諫言した事件では「国に直言の臣がいる、天下太平だ、萬福は八十にしてこの盛事を見た」と称賛し人々の敬意を集めた。
- 貞元二十一年、左散騎常侍致仕、同年五月、九十歳で卒した。従軍から死まで七十余年、一日も病むことなく、九郡の統治で恩恵を施した。泗州刺史時代、徳宗の奉天行幸・李希烈の乱に際し陳少遊が管内刺史の妻子を人質として揚州に送らせた中、萬福だけは「妻は老いて醜いので相公のお心を煩わせるまでもない」と拒み続け、その気骨が称えられた。