豊州・平涼の名将
- 景略、幽州良鄉の人、大父楷固、父承悅は檀州刺史・密雲軍使。門蔭で幽州功曹。大歴末、河中に閉居し読書に励んだ。李懷光の朔方節度時代、幕府に招かれ、偏将張光の妻殺害事件を的確に裁いた逸話(女の亡霊が謝意を示したという話が付随する)で大理司直・監察御史に進んだ。懷光が咸陽に屯し反意を露わにした際、景略は宮闕への帰還を説いたが聞かれず、軍門で慟哭し「この軍が不義に陥ると誰が知ろうか」と嘆き、私邸に退いた。
- 靈武節度使杜希全の幕府から殿中侍御史・兼豐州刺史・西受降城使。豊州は回紇との通路にあたり、歴代の刺史が弱腰であった中、景略は回紇の梅録将軍の弔問を装って威儀を示し「可汗の逝去を悼む」と恭しく応対することで梅録を心服させ、以後回紇の使者は皆景略に礼を尽くすようになった。杜希全に妬まれ誣告され袁州司馬に貶されたが、希全の死後、左羽林將軍に召され延英殿での応対で大臣の風格を示した。
- 河東の李說の病臥に伴い太原少尹・節度行軍司馬に任じられた際、回紇使梅録将軍が宴席の席次を争う中、李說が制せず景略が一喝すると、豊州時代を知る梅録は「豊州の李端公ではないか」と喜んで拝礼し座次を譲った。李說は内心不満で宦官竇文場に賄賂を贈り景略排除を画策したが、まもなく回紇の南下の噂を機に文場自身が景略の辺境経験を評価し、豐州刺史・兼御史大夫・天德軍西受降城都防禦使に任じられた。
- 塞外の厳寒・貧しい土地で節倹に努め士と苦楽を共にし、咸應・永清の二渠を鑿って数百頃を灌漑、二年で辺境随一の軍威を誇り回紇に畏れられたが、貞元二十年、五十五歳で鎮にて卒し贈工部尚書。世人はその才が十分に発揮されなかったことを惜しんだ。