舊唐書卷一百五十二 列傳第一百二 郝廷玉

李光弼の腹心

  • 廷玉、驍勇で格闘に長け、李光弼の帳中の愛将であった。乾元中、史思明の再度の洛陽陥落で光弼が東都の軍を河陽へ退いた際、防備不十分な中で安太清らの猛攻を受けた。光弼が「西北隅が最も手強い」との報告に廷玉へ「決着をつけて戻れ」と命じると、廷玉は騎軍五百を求め三百の精騎で先陣を切ったが、矢を受けた馬が動けず退いた。光弼は「廷玉が退いた、事は敗れた」と首を取りに使者を送ったが、廷玉は「馬が毒矢を受けたのみで敗れてはいない」と応じ、馬を替えて再び突撃、賊陣を数度突破し賊将徐璜を捕えて戻った。これにより賊は河陽の囲みを解いた。開府儀同三司・試太常卿・安邊郡王を授かり、光弼の徐州鎮守にも従い、光弼薨後は代宗に神策將軍として用いられた。
  • 永泰初、僕固懷恩が吐蕃・回紇を誘い京畿を侵した際、廷玉は馬璘と共に渭橋西窯底に駐屯。観軍容使魚朝恩が廷玉の陣形訓練を見て「兵間十余年でこれほどの訓練は初めて見た」と感嘆すると、廷玉は「これは自分の技量ではなく臨淮王(李光弼)の遺法、太尉(光弼)は賞罰を厳正に行い軍紀を保ったが、その薨去以来そうした厳格な訓練は行われていない」と謙遜して答えた。
  • 王縉の河南副元帥時代に都知兵馬使、秦州刺史を歴任。大歴八年卒し贈工部尚書。