浙江の乱平定と汴州対峙
- 棲曜、濮州濮陽の人。安祿山反乱時に尚衡の義兵に牙将として参加、曹州攻略では敵将邢超然を一矢で射殺し士気を挫き陥落させた。衡の入朝に従い試金吾衛將軍。
- 上元元年、浙東節度使王玙のもとで馬軍兵馬使。廣德中、袁晁の乱(浙江一帯で二十万の兵力)を御史中丞袁傪と共に討伐、十余戦の末に袁晁を生け捕り十六郡邑を回復、常州別駕・浙西都知兵馬使。
- 江左の兵乱で内常侍馬日新の貪暴による反乱(蕭庭蘭の乱)が蘇州を囲んだ際、棲曜は隙を突いて城壁を登り城内兵と共に賊を撃退。李靈曜の汴州反乱では浙西観察使李涵の下で河南への牽制軍を率い銀青光祿大夫。李希烈の汴州陥落・寧陵進駐に対し、浙西節度使韓滉の命で強弩数千を率い夜間に寧陵入り、希烈の陣幕に矢を撃ち込み「江淮の弩士が入った」と驚かせ東進を断念させた。
- 貞元初、左龍武大將軍、鄜坊丹延節度觀察使・檢校禮部尚書・兼御史大夫。貞元十九年、在職のまま卒。子の茂元。
王棲曜子 王茂元
- 茂元は幼くして勇略があり、父の征伐に従い知られた。元和中、右神策將軍。太和中、檢校工部尚書・廣州刺史・嶺南節度使として安南の蠻落を招懐し治績を挙げたが、南方の異産の交易で巨万の富を築いた。李訓の変後、宦官が茂元の財を狙い王涯・鄭注との関係を難詰したため、茂元は家財を尽くして両軍(宦官)に賄賂を贈り忠武軍節度・陳許觀察使を授かった。會昌中、河陽節度使。劉稹討伐の陣中、天井に駐屯したまま平定を見ずに卒した。