涇州で吐蕃を防いだ猛将
- 璘、扶風の人。祖正会は右威衛將軍、父晟は右司禦率府兵曹參軍。若くして孤児となり生業に無頓着だったが、二十余歳で『馬援伝』の「大丈夫は辺野に死し馬革に屍を包まれて帰るべし」を読み「祖の勲業を地に落とすものか」と奮起、開元末に剣を杖に安西へ従軍、数々の奇功で左金吾衛將軍同正まで進んだ。
- 至德初、王室多難の折、甲士三千を率い二庭から鳳翔へ駆けつけ、肅宗に才を認められ東討を任された。陝郊の賊平定・河陽での賊撃破に功をたてた。李光弼の洛陽攻撃で史朝義自ら精鋭を率い北邙で王師を阻んだ際、諸将が動けぬ中、璘は独り部隊を率いて敵陣に数度突入し賊を潰走させ、李光弼に「三十年用兵してきたが寡兵で衆を撃つ雄捷さは見たことがない」と称賛された。試太常卿。
- 翌年、蕃賊の辺境侵攻に河西救援を命じられた。廣德初、僕固懷恩が吐蕃を誘い侵攻させ代宗が陝州へ避難した際、璘は河西から戦いながら鳳翔へ至り、蕃軍雲集の中、閉城していた鳳翔節度使孫誌直の城を突破して甲を解かずに出撃、吐蕃を潰走させ数千を討ち取り「血流於野」というほどの戦果を挙げ、兼御史中丞を授かった。
- 永泰初、四鎮行營節度・兼南道和蕃使として禁軍を委ねられ残寇を掃討。四鎮北庭行營節度・邠寧節度使・兼御史大夫・檢校工部尚書。犬戎(吐蕃)が年々郊境を侵すため涇州に移鎮、鳳翔隴右節度副使・涇原節度・涇州刺史・四鎮北庭行營節度使を兼ね鄭・滑二州も加えられた。涇州で営塁を整え吐蕃を頻繁に破り前後約三万を討った。八年の鎮守で拓境の功はなかったが城堡を保ち虜の侵犯を許さず、檢校右僕射から檢校左僕射・知省事に進み扶風郡王に封じられた。
- 士族出身ながら学問はなく忠勇と武幹に優れ、艱難の中で忠節を立てた中興の猛将であった。五十六歳、大歴十二年に卒し徳宗は悼み廢朝、贈司徒。
- 辺境の将として恩賜が莫大で家財は計り知れないほど蓄積し、京師の邸宅は極めて豪奢であった。天寶中の貴戚勲家の奢侈もまだ制度の枠内にあったが、安史の乱後は法度が緩み内臣戎帥が競って豪奢を競った(当時「木妖」と呼ばれた)。璘の邸宅の中堂造営だけで銭二十万貫を費やしたという。璘の死後、士庶が中堂を見物に群がった逸話も伝わる。徳宗は東宮時代からこれを聞いており、即位後に第宅の制限令を出し璘の中堂と宦官劉忠翼の邸宅を破却させ、璘の家園は官に接収された。以後、公卿の宴は璘の旧邸の山池でよく催されたという。子弟は素行悪く家財はまもなく尽きた。