安南都護として二度赴任
- 昌、字は洪祚、天水の人。祖不器・父居貞は共に名を知られた。李承昭の昭義節度幕府から出発、貞元七年、虔州刺史。安南都護が夷獠に逐われた際に都護に任じられ夷人を懐柔した。十年、脚を怪我して帰任を願い出て裴泰が後任となったが、泰が首領に逐われると徳宗は昌に事情を問い、七十二歳ながら壮健であることに驚き再び都護に任じた(南人はこれを喜んだ)。
- 憲宗即位で檢校工部尚書、のち戸部尚書・嶺南節度。元和三年、荊南に転じ太子賔客に召され、工部尚書・兼大理卿に至った。六年、華州刺史、麟德殿での辞令の際、八十歳を超えながらも身のこなしが軽やかで受け答えも明晰なため憲宗が感嘆し養生法を密かに尋ねさせたという。在郡三年で太子少保に召され、九年、八十五歳で卒し贈揚州大都督、諡は成。
史論
- 史臣曰く――高崇文は軍律を正して師を率い、軍政に勤め、蜀への進軍でたちまち奇功を立てた――近朝の良将と言うべきである。伊慎・朱忠亮・劉昌裔・范希朝・閻巨源・孟元陽・趙昌らはそれぞれ功業を立て、一時の名臣であった。王鍔は明察で姦を照らし忠をもって主に仕えた点で名を後世に残す一方、竹屑木片まで無駄にせず倹約に徹する士君子的な面を持ちながら、安く仕入れて高く売り財貨を積むことに執着した点は、清白を子孫に遺す者とは程遠いと言うべきである。おおよそ位にある者はこれを鑑とすべきであろう。
- 贊に曰く――崇文の功は西蜀に顕れ、伊慎の忠は南方に見えた。朱・劉・范・閻はそれぞれの持ち味があった。元陽・趙昌にも功績が残る。彼の太原の王鍔は戦功も記すべきものがあったが、多財という枷のために子孫は禄を保てなかった。