舊唐書卷一百五十一 列傳第一百一 王鍔

嶺南・淮南で富を築いた統率者

  • 鍔、字は昆吾、太原と称した。もと湖南団練営将。楊炎が道州司馬に貶されていた頃に見出され、嗣曹王臯の団練使時代に重用され、邵州武岡の叛将王國良の招撫に功を挙げ邵州刺史。臯の江西節度使転任・李希烈南侵に際し尋陽鎮守を任され、蘄州襲取後の全軍渡河にも従い江州刺史・兼中丞・都虞候として臯の信任篤く、家宴にも同席するほどであった。
  • 臯の安州攻撃で城内交渉に鍔が単身入城し降伏を取りまとめたが、開城後に伊慎が包囲の恐怖から鍔を疎んじたため、鍔は病と称して身を引いた。臯の荊南節度使転任後は江陵少尹・兼中丞として賓佐に列しようとしたが馬彜・裴泰に鄙まれ都虞候に戻された。
  • 徳宗への謁見で臯に「文才は足りぬが他は試せる」と評され鴻臚少卿、容管經略使を八年務め溪洞を安んじた。広州刺史・御史大夫・嶺南節度使として、両税に匹敵する榷利や南海貿易の利益を掌握、家財は公庫を上回るほどに富み、京師の権門も鍔の財に依存する状況を八年続けた。刑部尚書を経て淮南副節度使として杜佑に代わった。
  • 帳簿管理に長け小策で属吏を統制、匿名の告発文書を靴に隠し他の紙と入れ替えて焼くふりをするなど巧みな謀を用い、属吏に神明のごとく畏れられた。竹木の端材まで再利用するなど倹約を徹底し、その蓄財は天下に流通するほどであった。淮南在鎮四年、司空に至った。
  • 元和二年、左僕射に正拝、檢校司徒・河中節度、太子太傅・太原(河東)節度使、鎮州討伐にも軍備を整えて評価された。二十余年に渡り節鎮を歴任、九年に同平章事、十年、七十六歳で卒し贈太尉。臨終に際し後事を明確に整理していたという。
  • 太原の王翃の従子と称し婚閥を誇り、『春秋左氏伝』を読んで儒者を自任したが人に笑われた。子の稷は鴻臚少卿を務めたが京師で家財を権貴への賄賂に費やし、父の遺表を改竄して進献物を隠匿した疑いで宦官に告発され裴度の諫言で罪を軽減されたものの評判を落とした。長慶二年、德州刺史として財宝を携え赴任した稷は、その富を狙う節度使李全略により軍乱を引き起こされ殺害され、娘は全略の妓妾とされた。稷の子叔泰は五歳で難を逃れ養育され、開成四年、滄州節度使劉約の上奏で文宗により吏部の九品官が与えられた。