舊唐書卷一百四十八 列傳第九十八 李籓

剛直な諫言と義理堅さ

  • 籓、字は叔翰、趙郡の人。曾祖至遠は武后期に李昭德の推挙を謝辞せず貶され、祖畬は考功郎中として母への孝行で知られ喪に耐えかねて死んだ。父承は湖南觀察使。
  • 籓は淡白謹直で学を好んだ。父の死後、財を惜しみなく親族に分け与え数年で貧しくなった。四十歳過ぎまで無官で揚州で困窮しながらも動じなかった。杜亞の東都留守時代、故人の子として従事に召され、洛中の盗難事件で牙将令狐運が誣告された際、亞は信じて拷問したが籓は冤罪を主張して従わず辞去、後に真犯人が捕まり籓の名声が高まった。
  • 張建封の徐州従事時代、建封の病篤い際に杜兼が私欲から急遽駆けつけた際、籓は兼に「州を放棄して来るとは何事か、速やかに戻れ、さもなくば上聞する」と一喝した。建封死後、兼は恨みを募らせ「籓が建封死去時に軍中を動揺させた」と誣告、徳宗は激怒し杜佑に密かに籓の誅殺を命じた。佑は籓を重んじ十日間躊躇し、仏教の因果応報を論じつつ詔を見せると、籓は動じず「兼との間には確かに因縁があった」と答えた。佑が密かに保護すると徳宗は召還したが、その容貌を見て「これが悪事を働く人間か」と釈然とし秘書郎に任じた。
  • 王紹の招聘を固辞し、王仲舒らの遊興の輪にも強いて一度加わったのみで距離を置いた(後にこの一派は失脚した)。主客員外郎・右司を経て、順宗の広陵王淳立太子の際、兵部尚書王純が「淳」を「紹」に改めようとした議論を「皇太子といえど臣下、東宮の臣が改めるならまだしも他の者が諂って改めるのは非礼」と批判、後に太子(憲宗)即位に伴う避諱改名でも監察御史韋淳のみが改名を渋ったが「陸淳」への改名詔で已むなく「韋貫之」と改名した経緯を評価した。
  • 吏部員外郎から吏部郎中で銓衡の乱れにより著作郎に降格、国子司業・給事中を経て、制勅の不当な箇所を黄敕に直接批注する慣行を貫いた。裴垍の推薦で鄭絪の罷免後、門下侍郎・同平章事となり、忠実に何事も直言する姿勢を憲宗に重んじられた。
  • 四年冬、治世の貧富の要因を問われた籓は「倹約が用を足す根本、君が奢侈を好めば民も贅を追い困窮する」と論じ憲宗の賛同を得た。禳災祈福についても「楚昭王・孔子の故事に見るように、道に順えば自ら福が来る、非道の祈祷に福はない」と論じ、河東節度使王鍔が巨額の賄賂で宰相兼任を求めた際は密旨に「兼相」と書かれた文書を自ら筆で塗り消し却下、権德輿の反対にも「今止めねば手遅れになる」と押し切った。
  • 李吉甫の再入相後まもなく籓は詹事に降格されたが、憲宗は数ヶ月後に召し戻し議論を続けさせた。元和六年、華州刺史・兼御史大夫に任じられたが赴任前に五十八歳で卒し贈戸部尚書。宰相としての才は裴垍に及ばず、孤高さは韋貫之にやや劣ったが、清廉な人物として同列に数えられた。