『元和郡国図』『通典』的地誌の編纂と藩鎮対策
- 吉甫、字は弘憲、趙郡の人、父棲筠は代宗朝の御史大夫として知られた。若くして学を好み文才に優れ、二十七歳で太常博士、国朝の故実に精通した。屯田員外郎・駕部員外郎を経て、宰相李泌・竇參に才を重んじられた。陸贄の宰相時代に明州員外長史へ出され、赦免後に忠州刺史となったが、既に忠州に流されていた陸贄との確執が予想される中、吉甫は宿怨を挟まず和やかに交わった。六年間昇進なく病で罷免、柳州・饒州刺史を歴任、饒州では四代の刺史が相次いで死んだ廃城を、吉甫が門を開き荊棘を払って住み、後任が安んじられるようにした。
- 憲宗即位で考功郎中・知制誥から翰林学士・中書舍人(紫衣を賜る)。中書小吏滑渙と宦官劉光琦の癒着による朝権壟断を除くよう進言。劉辟の乱では討伐策の一環として三峡路からの江淮軍派遣を献策、いずれも採用され信任を得た。二年春、杜黃裳の出鎮を機に中書侍郎・平章事となり、方鎮の貪婪を憂い属郡刺史に自治権を与える策を進言した。
- 三年秋、裴均が権幸に取り入り宰相を求める中、直言極諫科で時政を批判した対策が均一派の攻撃材料に使われかけたが、諫官李約・獨孤郁・李正辭・蕭俛の密奏で憲宗の誤解が解けた。吉甫が引き立てた羊士諤・呂溫を巡り、御史中丞竇群との間で人事上の齟齬から確執が生じ、群は吉甫周辺の占い師を捕えて讒言しようとしたが証拠なく不発に終わった。吉甫は自ら翰林で信任篤い裴垍を後継に推挙しつつ出鎮を願い出、九年、檢校兵部尚書・兼中書侍郎・平章事・淮南節度使となり、通化門楼で徳宗が自ら見送った。揚州では朝廷への密奏を続け、高郵縣に堤を築き数千頃を灌漑する治績を残した。
- 五年冬、裴垍の病免に伴い金紫光祿大夫・中書侍郎・平章事・集賢殿大學士・監修國史・上柱國・趙國公として再入相。職員・胥吏の整理、内外官俸の見直しを行った。京城の寺院が荘園の水車で免税を得ていた件は「僧に余力を、貧民に負担を配分するのは不可」として却下させ、普潤軍の涇原編入も奏請した。
- 七年、永昌公主の祠堂建設規模を巡り、京兆尹元義方の相談に対し、吉甫は「義陽・義章両公主の百二十間の祠堂は礼典に根拠がなく徳宗の一時の恩によるもので、後漢の東平王蒼が光武帝陵の造営に諫言した故事を挙げ、墓戸を置くに留めるべき」と論じた。憲宗はこれを聞き入れ二十戸の百姓負担を避けて官戸で代替する裁定を下した。
- 同年七月、憲宗との対話で吉甫の亡父棲筠の代宗朝での忠節が実録に記されていることを称えられ、吉甫は涙して感謝を述べた。八年十月、時政記の意義について問われた吉甫は「宰相が天子の言動を記し史官に授ける制度で、姚璹が長寿年間に始め賈耽・齊抗が貞元中に継いだが担当者の罷免で度々途絶えた。虚美・隠悪をせぬ記録こそ良史の証」と答えた。
- 同月、回鶻が磧を越え吐蕃討伐を名目に西域へ進んだ報に朝廷が動揺した際、吉甫は「侵寇ではなく備えのみで足る」として夏州から天徳への駅館十一所の再設置、経略故城への騎兵配置を進言。九年には宥州の再設置(旧慣の復活)を奏請し実現させた。
- 淮西節度使呉少陽の死後、子の元濟が襲位を求めた際、吉甫は「淮西は内地で河朔と事情が異なり、周囲に党援もない、討伐の好機」と経略の構想を憲宗に示した。
- 元和九年冬、五十七歳で急病により卒し、憲宗は久しく悲しみ絹五百匹の恤みと贈司空を加えた。当初は評判が高かったが、権を握って以降は視聴に偏りが生じ人々に警戒された。李絳の登用後は不協和が生じたが、絳の剛直な言に対し吉甫は慎重に構え直接の害は及ばなかった。奢侈な生活を送りながらも京師の一宅以外に財産を蓄えず、清廉さは評価された。当初の諡「敬憲」が優にすぎるとの張仲方の異論で仲方は貶されたが、最終的に「忠懿」の諡が贈られた。
- 『易象』の異義を一行の集注に付し、東漢から隋までの興亡を論じた『六代略』三十巻、諸鎮の山川険易を図示した『元和郡国図』五十四巻、戸賦兵籍を記した『国計簿』十巻、『六典』諸職をまとめた『百司挙要』一巻を著した。子は德修・德裕。