『通典』の編纂と度支の整備
- 佑、字は君卿、京兆萬年の人。曾祖行敏は荊・益二州都督府長史、祖愨は右司員外郎、父希望は鴻臚卿・恆州刺史・西河太守(贈右僕射)。蔭官で済南郡參軍・剡縣丞となり、潤州刺史韋元甫(父希望に恩を受けた人物)に見出され、疑獄の裁定で的確な答えをして司法參軍に抜擢された。元甫の浙西観察・淮南節度従事として深く信頼され、檢校主客員外郎・工部郎中・江西青苗使・撫州刺史・御史中丞・容管經略使を歴任。楊炎の入相で工部・金部郎中・水陸轉運使、度支郎中・和糴使を兼ね、軍興の中で財政を一手に委ねられ戸部侍郎・判度支に至った。
- 盧杞に憎まれ蘇州刺史に出されたが(母の憂を理由に赴任せず饒州刺史に変更)、まもなく御史大夫・嶺南節度使。旧慣で嶺南節度は五管経略使を兼ねるのが常であったが佑は兼ねず、以後五管が嶺南から独立する先例となった。
- 貞元三年、尚書左丞から陝州觀察使、檢校禮部尚書・揚州大都督府長史・淮南節度使。母の喪に起復、刑部尚書・檢校右僕射を歴任。十六年、徐州節度使張建封の死後、子の愔が三軍に擁立された際、佑は淮南節制のまま檢校左僕射・同平章事・兼徐泗節度使として討伐を委ねられたが、将孟準の渡淮軍は敗れ佑は境を固めるに留めた。結局朝廷は徐州を愔に授け、佑は濠・泗等州觀察使を加えられた。揚州で三十余の営塁を築くなど軍備は整えたが、賓僚間の権力争い(判官南宮僔・李亞・鄭元)を制御できず、徳宗の知るところとなり関係者は嶺外に流された。
- 十九年入朝、檢校司空・同平章事・太清宮使。徳宗崩御に伴い冢宰を摂り、檢校司徒・度支鹽鉄等使・弘文館大學士を加えられた。王叔文が副使として実権を握った時期を経て、叔文失脚後は李巽を副使に推挙、順宗崩御でも冢宰を摂ったのち金穀の職を巽に譲った。度支が煩雑化していた営繕・木炭・染練の職掌を将作・司農・少府にそれぞれ戻す整理を行い、朝廷から称賛された。
- 元和元年、司徒・同平章事・岐国公。党項が吐蕃と通じ辺将が功を求めて開戦を主張する中、佑は上疏し、周宣王が玁狁討伐で境界に至って止めた故事、秦の長城建設や漢武帝の遠征がかえって国力を疲弊させた前例、馮奉世の独断出兵を蕭望之が批判した故事、開元の宋璟が武臣の功名主義を抑えた先例を挙げ、「党項は本来我が徳を慕う小蕃であり、辺将の非違(良馬や子女の収奪)が叛乱の原因である。良将を選び信を示し撫柔すべきで、軽々に興師すべきでない」と論じた。憲宗はこれを深く納得した。
- 一年余りで致仕を願うも許されず、三五日に一度中書に入って政を執ることとなった。憲宗は「司徒」と呼んで敬い、樊川の林亭で公卿と宴を催すなど、諸子も朝列に並び当代随一の栄華を誇った。元和七年、病により四度の上表の末に辞職を許され、金紫光祿大夫・守太保致仕を賜った。同年十一月、七十八歳で薨去し廢朝三日、冊贈太傅、諡は安簡。
- 敦厚で持ち前の吏才に優れ、外見は寛和ながら身を持するに術があった。政は寛易を旨とし、富国安民を志として学問を好んだ。開元末の劉秩『政典』(『周礼』六官に基づく三十五巻)を基に条目を広げ、開元礼・楽を加えて二百巻の『通典』を編纂、貞元十七年に淮南から献上した。上表文で「太上は徳を立て、その次は功を立て、その次は言を立てる」との古典的理念を引き、経書の多くが理念を記すのみで法制を欠く点を憂い、三十年余りをかけて九門二百巻にまとめたと述べた。この書は礼楽刑政の淵源を一望できるものとして士君子に称賛され、書府に収蔵された。
- 勤勉で位人臣を極めても書を手放さず、賓客との議論では博識に人が敬服した。ただ淮南在任中、妻梁氏の死後に嬖妾李氏を正室に立て密国夫人に封じたことは親族に反対され世に非難された。三子あり、師損が嗣ぎ司農少卿に至った。
杜佑子 杜式方
- 式方、字は考元。蔭官で揚府參軍から常州晉陵尉、浙西観察使王緯の従事、太子通事舍人・太常寺主簿を歴任、鐘律に明るく高郢に賞された。父佑が揚州に鎮していた頃、家財巨万・安仁里の邸宅・杜城の別墅は城南随一と称された。父の入相に伴い昭應令、父の喪に服した後、司農少卿・金紫・正議大夫・太仆卿。弟悰が公主を娶った際は外戚として自ら職務を控えた。穆宗即位後、兼御史中丞・桂管觀察都防禦使、長慶二年三月、在官のまま卒し贈禮部尚書。
- 孝友篤く兄弟仲睦まじく、病弱な末弟従郁の看病を自ら行い、従郁の死には慟哭したという。子は惲・憓・悰・恂。惲は嗣いで富平尉、憓は興平尉。
杜式方子 杜悰
- 悰、蔭官で太子司議郎に累進。元和九年、麟德殿で見召され岐陽公主(憲宗の長女、郭妃所生)を娶り銀青光祿大夫・殿中少監・駙馬都尉。当時の公主降嫁は貴戚や武臣の家が多かったが、翰林学士獨孤郁(権德輿の娘婿)が要職辞退した経緯から、朝廷は文雅の士から選ぼうとしたが誰も応じず悰のみが願い出た。司農卿から太和六年、京兆尹、七年、檢校刑部尚書・鳳翔尹・鳳翔隴右節度、母の喪に服し起復忠武軍節度使・陳許蔡觀察等使・兵部尚書。開成初、工部尚書・判度支。岐陽公主の薨去後、悰が謝礼に上らず文宗が怪しんだところ「駙馬が公主に三年喪を服す慣行のため士族が国戚を嫌う一因になっている」と戸部侍郎李玨が答え、文宗は驚いて服喪を周年に改める詔を下した。三年、戸部尚書・判戸部度支事、会昌中に中書侍郎・同中書門下平章事・左僕射。
- 大中初、西川に出鎮し、かつて吐蕃に落ちた維州(岷山の要衝、吐蕃が「無憂城」と呼び邛蜀への恐れを絶っていた地)を、兵刃を用いず民心の帰趨によって回復した(先に李德裕が維州降伏を受けた際は朝議で否決され城が返還された経緯があった)。まもなく再入相、司空・司徒を加え重鎮を歴任、最終的に太傅・邠国公。特別な才はなく、寒門の士を厚遇し無難に地位を保つ人物であった。
杜式方季弟 杜從郁
- 從郁、蔭官で貞元末に太子司議郎、元和初に左補闕。諫官の崔群・韋貫之・獨孤郁らは「宰相の子が諫官では不適切」として左拾遺に降格させたが、更に「拾遺も補闕も同じ諫職で、父が宰相なら子は父の政を論じにくい」と重ねて指摘、結局秘書丞に転じ最終的に駕部員外郎で終わった。子は牧・顗、共に進士及第、顗はのち眼病で卒した。
杜從郁子 杜牧
- 牧、字は牧之。進士及第・制挙乙第を経て弘文館校書郎・試左武衛兵曹參軍。沈傳師の江西・宣州観察使従事、淮南節度推官・監察御史裏行・掌書記を歴任、監察御史(分司東都)となったが弟顗の眼病を理由に辞官、宣州團練判官・殿中侍御史内供奉、左補闕・史館修撰、膳部・比部員外郎(史職兼任)、黃・池・睦三州刺史、司勛員外郎・史館修撰、吏部員外郎を経て再び弟の病で帰郷、湖州刺史から考功郎中・知制誥、その年のうちに中書舍人となった。
- 読書と詩文を好み経世の才略を自負した。武宗朝の異民族討伐に際し宰相に兵事論を上書し「胡戎の侵寇は秋冬に集中し盛夏は無備であるため五、六月に討つべき」と献策、李德裕に称賛された。曹操の校訂した『孫武十三篇』に注を付し世に広めた。
- 従兄悰の栄達と対照的に低い地位にいたことを常に不満に思い、五十歳を前に病を得て自ら墓誌と祭文を書いた。夢や不吉な兆しに接し「これも過ぎ去るもの、湖州刺史から舎人に至れば十分」と嘆いたという。同年、安仁里の自宅で五十歳で没した。詩文集二十巻『杜氏樊川集』が世に伝わる。子の德祥は丞郎に至った。
史論
- 史臣曰く――杜黃裳は道をもって君を助け誠を持して主に仕え、李懷光の偽詔を見破り韓全義の出兵を罷めさせた。劉辟討伐の献策は無駄なく的中し、韋執誼の柩を最後まで葬った態度は仁と言うべきである。高郢は生来の資質を備え、幼くして父の刑罰を代わろうとしたのは孝、李懷光の乱で孔巢父の遺骸を撫でたのは義、進士応挙の浮薄を抑え隠れた才を掘り起こしたのは正、身の程を知って栄辱の道を避けたのは智――忠孝仁智すべてを備えた大節の人であった。杜佑は蔭官から出仕し疑獄の裁定で認められ、博古通今の学識と忠勤で位を極め子孫にも栄達をもたらした――その修養の報いというべきである。しかし賓僚が法を乱し嬖妾を正室に立てたことは、事なかれの姿勢の表れで正しさを語りがたい。杜牧の文章、杜悰の温厚さ――才と地位の不釣り合いは、まさに運命というものであろう。
- 贊に曰く――貞公(高郢)の壮節は困難に際して奮い立ち、言行に瑕疵なく明哲と称すべし。乱を鎮め俗を豊かにし、時が泰らかで位が隆盛であった――国の名臣として、鄭公(杜黃裳)・岐公(杜佑)の名が挙げられる。