節を曲げぬ諫言の士
- 郢、字は公楚、渤海蓚の先祖を持つ。九歳で『春秋』に通じ文才があった。天寶末、盗賊が京邑を占拠した際、父伯祥(好畤尉)が捕らえられ極刑に処されようとした際、十五歳の郢が髪を振り乱し裸になって父の身代わりを願い出、賊党もこれに感じて共に釈放した。進士及第・茂才異行科に及第し華陰尉。魯国が天子の礼楽を用いる不当性を『公羊伝』に基づき論じた『魯議』が評判を呼び咸陽尉となった。
- 郭子儀の朔方節度掌書記となり、子儀が従事張曇を怒って殺そうとした際に強く諫止したため不興を買い猗氏丞に貶されたが、李懷光の邠寧従事から副元帥判官・檢校禮部郎中に進んだ。懷光が背叛し河中に帰ろうとした際、郢は「西に赴き駕を迎えるのが忠ではないか」と諫めたが聞かれなかった。懷光が全軍を挙げて西進しようとした際、渾瑊軍が孤立し諸将も未集の中、郢は李鄘と死を賭してこれを止めた。懷光の長子琟に会った際、郢は「天寶以来抗命した者で今なお残る者があるか、国家には天命がある、十室の邑にも必ず忠信の者はいる、三軍に離反者が出ぬとどうして言えるか」と説き、琟は震え涙を流した。
- 翌春、郢は都知兵馬使呂鳴嶽・都虞候張延英と共に間道で上表・密詔を受ける策を図ったが露見し両将は即座に処刑された。懷光は白刃を並べた庭で郢を詰問したが、郢は毅然と抗弁し慚色なく、その気迫に観る者は涙した。懷光は恥じて手を出せなかった。徳宗が帰京後、諫議大夫孔巢父と中人啖守盈が懷光宣慰に赴き太保を授けようとしたが懷光は怒り親兵に守盈と巢父を殺させた。巢父が斬られ倒れた際、郢はその場に駆け寄り遺骸を撫でて悼んだ。懷光誅殺後、馬燧の掌書記となった。
- 主客員外・刑部郎中・中書舍人を経て九年後、禮部侍郎。当時の進士応挙者は朋党遊興に走り学業を怠る風潮があったが、剛正な郢はこれを嫌い請託を拒絶、経学重視の採点で浮華を抑え、三年間の貢挙で風潮を一変させた。太常卿を経て貞元十九年冬、銀青光祿大夫・守中書侍郎・同中書門下平章事。順宗即位で刑部尚書に転じ韋執誼らに憚られたが、まもなく政務を罷め吏部尚書事の判官として華州に出鎮した。
- 元和元年冬、太常卿に復し御史大夫、数月で兵部尚書。二度上表して辞職を願うも許されず、貢禹・趙喜・韓暨・山濤の故事を引いて自らの老齢を理由に辞意を重ねて表明し、尚書右僕射致仕となった。六年七月、七十二歳で卒し贈太子太保、諡は貞。
- 恭謙で廉潔、人と交わることを好まず、職務に忠実で長年制詔を執筆しながら家に草稿を残さなかった。理由を問われ「王言は私家に留めるべきでない」と答え、その慎重さは世に重んじられた。鄭珣瑜と共に宰相に就いたが、順宗の病により王叔文が実権を握った際、珣瑜は憂色を隠さず遂に病と称して出仕を拒んだが、郢は事なかれで最後まで発言せず罷免された――この対比で世評は珣瑜を優れりとした。
- 子の定は幼くして聡明、七歳で『尚書・湯誓』を読み「なぜ臣が君を討つのか」と問い、郢が「天に応じ人に従うのは非道でない」と答えると更に「命に従わぬ者を祖廟で賞し従う者を社で戮するのが人に従うことか」と重ねて問い、郢は答えられなかった。京兆參軍に至り、幼名董二で通り、『王氏易』に精通し『易図』『易外伝』二十二巻を著した。