厳法による招いた横死
- 長源、字は泳之、開元・天寶期の尚書左丞太子詹事余慶の孫、西河太守璪の子。史書に通じ、乾元中に河北の賊に陥った経験を経て昭義軍節度薛嵩の没後に佐官、建・信二州刺史を歴任。浙西節度韓滉のもとで檢校郎中・兼中丞・転運副使、のち都官郎中・萬年縣令・汝州刺史。
- 貞元十二年、檢校禮部尚書・宣武軍行軍司馬として汴州の政事を実質的に掌握。軽薄で才を恃み人を見下す性格で人々に恐れ嫌われた。董晉の判官楊凝・孟叔度が驕兵に迎合する中、長源は常に法を厳守し晉の姑息な処置を正そうとした。
- 晉の死後、長源が留後事を執ることとなり「将士の弛緩を法で正す」と宣言し人々を恐れさせた。孟叔度の苛政と放蕩(樂營での遊興、自称「孟郎」)も人々の反感を招いた。節度使死去時の慣例である三軍への布帛支給をめぐり、長源は当初拒み、結局代金を支給することとしたが、叔度が塩の代価を高く布の代価を安く操作したため軍士の不満は爆発、長源は「河北の賊のように銭で兵を買うことはできぬ」と突っぱねたため、兵士は長源・叔度らを捕えて八つ裂きにして食らった。長源が死んだ当日、皮肉にも節度使任命の詔が下っており、その死は朝野に惜しまれ贈尚書右僕射。