礼学に通じた宰相
- 晉、字は混成、河中盧郷の人。明経及第。至德初、肅宗の彭原行幸に上書謁見し校書郎・翰林待制、以後衛尉丞・汾州司馬・淮南節度判官・侍御史・主客員外郎・祠部郎中を歴任。大歴中、回紇への崇徽公主護送の判官を務め、司勛郎中に拝命。秘書・太府・太常少卿監・左金吾將軍を経て、徳宗即位で太常卿・右散騎常侍・兼御史中丞知臺事と急速に昇進した。のち華州刺史・兼御史中丞・潼關防禦使、朱泚の乱では華州侵攻を逃れ行在に赴き国子祭酒、恆州宣慰使を経て左金吾衛大將軍・尚書左丞。度支使元琇が韓滉に讒せられ貶された際、晉は宰相に無実を訴え朝野に称された。
- 五年、門下侍郎・同平章事となったが政事は竇參が決し晉は詔書を奉じるのみであった。金吾衛將軍沈房が喪服のまま入閣した礼制論争で、晉は「朝官の服制は君前の恭敬を示すもので、綾袍袱・金玉帯は上を敬う文彩であり黻冕を美とした禹の故事に通じる」と的確に論じ、徳宗は納得して常参官の服制を定めた詔を下した。
- 竇參の驕慢を徳宗が疎むようになり、八年、參が姪の竇申の吏部侍郎推挙を晉に諷させた際、徳宗に問い詰められ晉は隠さず答え、參の過失も具に奏上、旬日で參は貶された。晉は憂懼して辞位を願い、九年夏、禮部尚書・兵部尚書・東都留守・東都畿汝州都防禦使に転じた。
- 汴州の李萬榮が病篤く子の乃が乱を起こすと、晉は檢校左僕射・同平章事・兼汴州刺史・宣武軍節度營田汴宋觀察使に任じられた。従者十数人のみで赴任し兵馬も集めず、鄭州で出迎えがない状況に周囲は「鄧惟恭が軍州事を掌握しており様子見すべき」と勧めたが、晉は「詔により赴官すべき」と動じず、汴州に近づくと惟恭がようやく迎えに現れた。晉は惟恭に馬を下りさせず、そのまま軍政を委ねたため、人々はその事体への明察に服したが真意は測りかねた。
- 惟恭は自らが節度使に代われると期待していたため晉を疑わせようとしたが、晉の迅速な到着で目算が外れ心中不満を抱き続け、驕慢の末に不軌を図り嶺南へ流された。朝廷は晉の柔弱を懸念し汝州刺史陸長源を行軍司馬とした。晉は謙恭で旧慣に従う姿勢で乱兵を鎮めたが、長源は改革志向で厳しい取り締まりを求め、晉は当初同意しつつも文書化された段階で撤回することが多かった。銭穀の管理を委ねた判官孟叔度は軽薄で軍人を侮り嫌われた。晉は十五年二月、七十六歳で卒し廢朝三日、贈太傅。没後十日足らずで汴州は大乱となり長源・叔度らが殺された。