宣武軍節度使としての功績と死
- 玄佐、本名洽、滑州匡城の人。若くして無頼で県の捕盜吏となるも法を犯して笞刑を受け、命からがら逃れて従軍した。大歴中、永平軍衙將。李靈曜が汴州に拠った際、洽は無防備な宋州に入り朝廷はこれを永平軍隷属とし、節度使李勉が宋州刺史に上奏した。建中二年、兼御史中丞・亳潁節度等使。
- 李正己の死後、子の納が喪を秘して叛き、朝廷帰順した徐州の李洧を包囲すると、洽は諸軍と共に大破し首級万余を挙げ御史大夫。濮州を収め将楊令暉を降し、濮陽も降した。尚書に進み四百戶を封じられ曹濮觀察使、のち淄青兗鄆招討使・汴滑都統副使を加えられた。李希烈が汴州を攻めた際、徳宗は奉天にあったが連戦して賊を退けた。興元初、檢校左僕射・同平章事。希烈が寧陵を囲んだ際は大将劉昌言が堅守、陳州攻撃には昌言らを送って大破し将翟崇暉を捕えた。希烈が汴州を棄てると洽は汴州を回復、汴宋節度を加えられ、さらに陳州諸軍行營都統となり「玄佐」の名を賜った。この年、涇原四鎮北庭等道兵馬副元帥・檢校司空・実封八百戶を得た。
- 玄佐は豪奢を好み財を軽んじ義を重んじ軍士に厚く賞したため民は困窮した。汴州の兵は李忠臣以来玄佐の代に至るまで驕慢を増し将帥を逐い殺すことが常態化していた。玄佐は小吏張士南や養子樂士朝を寵任し巨万の富を得させ、士朝は玄佐の嬖妾と通じていた。李納の使者には厚遇と美女・名楽で接して密事を探り、常に先んじて備えたため李納は玄佐を恐れた。貞元三年三月、五十八歳で在職のまま薨去し廢朝三日、贈太傅。将佐は喪を秘し、皇帝もこれを黙認して数日後に発喪した。子は士寧・士幹。
劉玄佐子 劉士寧――暴虐と失脚
- 将佐が喪を秘した際、皇帝は後任を「吳湊でよいか」と問い監軍らも同意したが、後任赴任の途中で軍士の待遇をめぐる不満が爆発、玄佐の女婿と親兵が三月晦日の夜に三軍を扇動、翌朝、衙兵は士寧を留後に擁立し、迎候を求めた者を惨殺した(盧瑗のみ免れた)。士寧は財を分与し将士に推され、朝廷は李納との連携を懼れて起復金吾衛將軍同正・汴州刺史・宣武軍節度等使とした。
- 士寧は残忍淫乱で酒宴の場で人を手ずから殺し、父の妓妾を悉く姦し、他人の妻女を強奪、婦人の裸を見物することを好んだ。狩猟にふけり軍府を苦しめた。大将李萬榮は玄佐と同郷で人望があったが士寧に疑われ兵権を奪われ汴州の事務を摂った。十年正月、士寧が城南で狩猟に出た隙に、萬榮は「大夫(士寧)を入朝させ自分が留務を執る」と偽り腹心の兵に賞金を約して軍を掌握、士寧に「速やかに上京せよ、さもなくば首を献じる」と迫った。士寧は五百騎で京師に逃げたが道中で兵が離散、京師では帰第・服喪・出入禁止とされた。萬榮は士寧の側近を斬り、財産を没収して軍に分与、宣武軍兵馬留後となった。
- 萬榮配下の親兵三百が驕慢を極めたため行籍に置いて処罰しようとしたところ、大将韓惟清・張彥琳がこれに乗じて反乱、萬榮軍を攻めたが敗れ、転運財貨や住民を掠奪しつつ潰走、千余人の死傷を出した。惟清は鄭州、彥琳は東都に逃れ帰罪し流罪となった。萬榮は逃亡兵の妻子数千人を捕え誅殺、動揺した軍中で流言を発した者も士寧の教唆と見て斬った。士寧は郴州に廃された。十一年五月、萬榮は宣武軍節度使となったが同年八月に病を得て子の乃を司馬に任じ、大将李湛・伊婁涚・張伾の殺害を命じたが実行前に涚・伾は死去、李湛は尉氏鎮将郝忠節に助けられた。軍士は李乃を逐って京師へ送り、萬榮はその日病没、乃は京兆府で杖殺された。
劉玄佐養子 劉士幹
- 士幹は玄佐の養子で太府少卿。もう一人の養子樂士朝も劉姓を冒し士幹と不和であった。玄佐の死が士朝の毒殺との噂が流れると、士幹は京師で喪の席に奴を刀を持たせて赴かせ「弔客が参った」と偽って士朝を誘殺した。士幹は死罪を賜った。