舊唐書卷一百三十四 王璵・李泌・崔造・關播

王璵・李泌・崔造・關播の四人はいずれも粛宗・代宗・徳宗朝の宰相を務めたが、史臣はいずれも真の国器ではなかったと評す。王璵は祭祀の妖妄によって将相に至り、李泌は奇才で乱世を陰から支えたが神仙の詭道を好み世に軽んじられた。崔造は財政改革を急進的に進めて挫折し、關播は柔弱で人を見る目に乏しく李元平の登用に失敗した。

年表(20件)

王璵――祀典を操って宰相に至る

  • 王璵は若くして礼学を修め、祠祭の儀注を博く求めて時に取り入った。開元末、玄宗が道術を尊び諸神を崇めていたころ、璵は古今の祀典を引いて疏を上げ、国の東郊で青帝を祀る春壇の設置を請い、玄宗は大いに喜んで太常博士・侍御史・祠祭使に遷した。璵は祀事によって寵愛を得ることに専心し、祈禱のたびに紙銭を焼き福祐を祈るなど巫覡に近く、それゆえ過分な恩遇を受けた。
  • 粛宗即位後、太常卿に累進し、祈禱のたびに賜与が多かった。乾元三年(760年)七月、蒲州刺史・蒲同絳等州節度使を兼ねた。中書令崔円が罷相すると璵は中書侍郎・同中書門下平章事とされたが、人望はもとより薄く、枢務に就くと評判はいっそう落ちた。璵はまた南郊の東に太一神壇を設置し天子自ら祀事を行うよう上奏した。
  • 粛宗が病んだ際、太卜が「祟りは山川にある」と言ったため、璵は女巫を天下に分遣し名山大川を祈祭させた。巫らは盛装して駅伝で行き、天子は中使に監督させたが、これに乗じて奸を働き、行く先々で長吏に取り入り賄賂を求めた。ある年若く美しい巫は数十人の悪少年を従え、とりわけ弊害が甚だしく、黄州の伝舎に一党で泊まったところ、刺史左震が早朝に至って駅門を開けさせ、その巫を階下で斬り、従った悪少年もことごとく殺した。震はその贓賂数十万を没収して上聞し、貧民の租税に充てるよう請い、随行の中使は京師に送還されたが、粛宗はこれを問い詰めることができなかった。粛宗が親しく九宮神を謁し祠禱に殷勤であったのは、皆璵が勧めたことによる。
  • 一年余りで知政事を罷め刑部尚書となった。上元二年(761年)、揚州長史・御史大夫・淮南節度使を兼ねた。粛宗が南郊の礼を終えると璵は使持節都督越州諸軍事・越州刺史・浙江東道節度観察処置使に任じられ、本官に御史大夫を兼ね祠祭使も従前どおりとされた。太子少保として入り少師に転じ、大暦三年(768年)六月、卒した。
  • 璵は祭祀の妖妄によって将相の位に至ったが、当時、邪道によって進む者はしばしばいた。広徳二年(764年)八月、道士李国禎が道術で見えて皇室の仙系を奏し、霊跡を修めるべきと述べ、昭応県南三十里の山頂に天華上宮露台・大地婆父・三皇・道君・太古天皇・中古伏羲媧皇などの祠堂を置き掃灑の宮戸百戸を置くこと、また県東の義扶谷の旧湫に龍堂を置くことを請い、いずれも許された。折しも凶作で人心は不安定であり、昭応県令梁鎮は上表して次のように諫めた。
  • 国は民を本とし、民を害しては国とはいえない。神も民を主とし、民を虐げては神とはいえない。近年の水旱の災いで王畿はみな苦しんでいるが、とりわけ我が県は甚だしい。神が大災を防げなかったのは明らかであり、なぜ祀典に列するのか。凶荒の年に丁壮は召集され老弱は輸送に駆られ、王事を賄うだけで手一杯なのに、さらに鬼道に奔走させては民は立ち行かない。
  • 天地の神を尊ぶ極みは、地を掃うだけで祭ることができ、真心があれば十分に饗される。先王の典を廃し俗巫の説を崇め、農夫を走らせ牛を殺してまで非妄の福を求めても、福が至る前に民が困窮してしまう。昔の有徳の君主が宮室を質素にし飲食を慎み己を恭しくして万物の性を遂げさせたのを見習うべきである。今、天地の育みの心に背き民の疲弊した力を尽くさせては、どうして福が得られようか。
  • 宗廟への敬意でさえ月に三度も祭る礼はないのに、これだけを別格にすれば宗廟の神霊は親疎・厚薄で計られることになる。大地婆父は祀典に典拠がなく道理も成り立たない。もし大地に祖宗の廟を建てるようなことをすれば天は逆に咎めを下すだろう。
  • 湫(沼)は龍の住処であり、水があってこそ龍は神たり得るが、水が涸れれば龍は既に失われているはずである。湫が涸れて久しいのに祠宇を飾り立て供物を捧げるのは、龍の穴を壊し民の産を破るに等しく、民の怨みを買うだけで神も享けはしない。
  • 道君・三皇・五帝は両京や旧都にすでに宮観祠廟が建てられ常時斎醮饗祀が行われており典礼に欠けはない、なぜさらに神霊を煩わせる必要があるのか。
  • 先王の典礼を考えれば、吉凶禍福は帝王の五事にかかるのであって山川百神にはよらない。
  • この弊の原因は、道士李国禎らが人を動かせば人を得、工を興せば利を得、祭祀をすれば供物を受け、事を掌れば権を弄べるからである。宮中を動かし天聴を惑わし、険阻を越えて祭物を運ばせ日々年々止むことがない。神の功力を求めるどころか民の膏血を絞るだけで、人神ともに怨み災いが生じている。上を欺き民を害する左道は政を乱すものであり、情を推せば死罪に当たる。
  • 私は着任時に聖旨を受け安撫に努めよ、権宜を許すとされた。よって鄴県の巫(趙の故事)を沈め弊俗を治めるよう、二祠の土木・丹青の工事、三六の祭、掃除の宮戸を宣旨をもって権宜に停止した。人吏百姓は陛下が善に従い悪を憎む心を知り、不急を除き煩苛を改めたことを喜び、道で躍り上がって喜び、徴収の糧も喜んで納めるようになった。
  • 国禎らは宮中の権貴と結び狡猾さを本性としており、私は身を忘れ国に尽くし讒言を恐れないが、豪右に賄賂が及べば再び奸悪をなすであろう。国禎らを取り調べ贓状が得られれば徴収を許され、県の郵館の費用に充てたい。湫はすでに涸れており祠堂を新たに置くべきでなく、大地に祖廟を建てるのも不当なので停止を請う。三皇・道君・天皇・伏羲・女媧はもとより各所に宮廟があるので、そこで従来どおり斎祭すればよい。
  • 徳宗はこれに従った。

李泌――王佐を自負した奇士、乱世を陰で支える

  • 李泌、字は長源。その先祖は遼東襄平の人で、西魏太保・八柱国司徒李弼の六代の孫。京兆の呉房令李承休の子として今は京兆に居す。若くして聡敏、経史に博く通じ『易象』を精究し、文に優れとりわけ詩に巧みで、王佐の才を自負した。張九齢・韋虚心・張廷珪は皆これを重んじた。泌は志操が拘束を嫌い、常套の仕進を辱めとした。
  • 天宝中、嵩山から時務を論じる書を上ると玄宗は召見し翰林に侍詔させ東宮供奉も兼ねさせた。楊国忠はその才弁を忌み、泌がかつて作った『感遇詩』が時政を諷刺していると奏し、蘄春郡への流謫を詔された。泌は名山に潜遁し隠遁生活を楽しんだ。
  • 天宝末、安禄山の乱で粛宗が北巡し霊武で即位すると使者を遣わして泌を招いた。泌は嵩・潁の間から難を冒して行在に馳せ参じ、彭原郡で謁見し古今の成敗の機を陳べたところ大いに天子の意に称い、寝所に近侍させ何事も泌に問うた。泌は山人と称して官秩を固辞したため、散官によって遇され銀青光禄大夫を授けられ枢務を掌らせた。四言の文状や将相の人事も泌と議し、その権は宰相を超え、元帥広平王の軍司馬事も判した。粛宗は常に「卿は上皇の天宝の代には朕の師友であり、下って広平の行軍を判じ、朕父子三人は卿の道義に頼っている」と語ったという。かくのごとく重んじられた。
  • まもなく中書令崔円・幸臣李輔国が泌の才を害しようとしたため、泌は恐れて衡山への遊学を乞い、詔許され三品の禄俸を給されたまま衡岳に隠れ、辟穀して精神を養った。
  • 数年後、代宗が即位すると翰林学士として召され厚遇された。元載が輔政すると異己を憎み、江南道観察都団練使魏少游が参佐を求める上奏に乗じ、泌に才ありとして検校秘書少監・江南西道判官として出させた(京師から遠ざけたのである)。まもなく検校郎中に改められ判官のままとされた。元載が誅されると泌は駅伝で急ぎ入朝し、天子は喜んで対面した。
  • 再び宰相常袞に忌まれ楚州刺史として出された。謝恩の際に朝廷への未練を陳べると、天子はもとより泌を重んじ京師に数ヶ月留めた。折しも澧州刺史が欠員となり、袞が泌の治績を盛んに述べ荊南の衰弊を理由に泌を澧州に赴かせることとした。詔して「荊南の要衝である澧陽の地を賢者に治めさせたい、泌の文は風俗を一変させ政は寡婦孤児を救うに足る、検校御史中丞・澧朗硤団練使とする」とされ、礼を厚くして遣わされた。まもなく杭州刺史に改められ治績で称された。
  • 興元初、行在に召され左散騎常侍に遷った。貞元元年(785年)、陝州長史・陝虢都防禦観察使を除せられた。二年(786年)六月、泌は虢州盧氏山冶で瑟瑟(宝石)が出るとして採取を進言したが徳宗は「瑟瑟は中国にはないものが近郊に産するのは瑞祥だが、朕は器玩を飾らず珍奇を尚ばず質朴を旨とする、百姓が求め採るのに任せ禁じるには及ばぬ」と詔し、泌に検校礼部尚書を加えた。
  • 当時、陳・許の戍辺卒三千が京西から逃げ帰る途中、州境に達すると泌は険隘に潜兵させ左右から攻撃してことごとく誅殺した。まもなく中書侍郎・平章事・集賢崇文館学士・修国史を拝した。
  • 以前、張延賞が官員を大きく削減し人心が怨嗟したため、泌はこれを復するよう請い民意に従った。あわせて試額内占闕等の官を罷め百官の俸料を加え、閑劇に応じて手力課を加置するよう上奏し、天子はこれに従い人々は便とした。しかし竇参が横から異論を上奏したため制度は改められ、同品の内でも月俸に段差が生じるようになった。
  • 泌はまた拾遺・補闕の官を罷めるよう請い、天子は許さなかったが実際に人を補さなかったため諫司は韓皋・帰登のみとなった。泌はさらに彼らの署の湌銭(食費)まで没収し、登らを中書舎人に寄食させたため、当時「韓諫議は左右に分かれても、帰拾遺は生死も分からぬ」と揶揄された。この状態が三年続き、貞元五年(789年)に前東都防禦判官・殿中侍御史・内供奉の韋綬が左補闕、監察御史梁粛が右補闕となって復置され、人心はようやく安堵した。
  • 順宗が東宮にあった際、妃蕭氏の母郜国公主が外部の者と交通したことで疑いを招き数人が連座して貶黜され、皇太子の地位まで危うくなった際、泌は百方に説いて天子の疑いを解いた。
  • 泌は讜直な気風を持つ一方、神仙の詭道を語り、赤松子・王喬・安期・羨門と交わったと自称したため世に軽んじられ、詭道で人心を得ようとしても時の君主には重んじられなかった。徳宗は即位当初、巫祝の怪誕を特に嫌っていた。かつて粛宗は陰陽祠祝を重んじ妖人王璵を宰相に用い、あるいは巫媼を駅で郡県に遣わし厭勝を行わせ、興造のたびに禁忌に拘った。黎幹も左道によって京兆尹に至り、内で工匠を集め珠繍で御衣を編ませ、完成すると焼いて禳禬とすることが絶えなかった。徳宗は東宮でこれを知り、即位後は内道場の僧集会を罷め巫祝の祀を除いた。
  • 有司が宣政殿の内廊が壊れたので修繕を請うた際、太卜が「孟冬は魁岡の方角に当たり穿築に不利、他の月を占うべし」と言うと、徳宗は「『春秋』の義では啓塞は時に従うもので、魁岡など問題ではない」として修繕を命じた。また代宗の山陵の霊駕が発する際、天子が承天門で号泣して送り、轀輬車が道に正しく当たらず午未の間を指していたのを見て理由を問うと、有司は「陛下の本命は午に当たるため道を避けたのです」と答えた。天子は号泣して「霊柩を曲げてまで自分の利を謀ってどうする」と言い、直ちに午に向かって進めさせた。
  • 建中末、外寇と内乱が続き、桑道茂が奉天に城を築くべしと説いた頃から、天子はやや時日禁忌を意識するようになり、かねて泌が鬼道に長けると聞いていたため、地方から召還し重用するに至った。当時の議論はこれを不満とした。相位にあっても時勢に従うだけで称すべき事績はなかった。また顧況ら軽薄の徒を引き入れ朝士の戯侮を招き譏誚を残した。享年六十八で薨じ、太子太傅を贈られ賻礼を加えられた。泌は放曠で弁が立ち大言を好み、宮中に出入りしながらしばしば権幸に忌み嫌われたが智略で免れ、最後は言論が縦横で天子を悟らせ相位に登った。文集二十巻がある。

泌の子・李繁

  • 子の李繁は若くして聡警で才名があったが行義に欠けた。泌が宰相のとき、夏県の処士北平の陽城を諫議大夫に推挙した。城は道直な人柄で知己に厚く恩を感じていた。泌の死後、戸部尚書裴延齢が巧言で天子に取り入り権を弄び朝廷から白眼視されると、正義の士であった城は特に憤り、その過悪を悉く記した疏を密かに論奏しようとし、旧知の子である繁を信頼できると考え疏の草案を示し清書を頼んだ。ところが繁は清書しながらすべて記憶し、その夜すぐに延齢のもとへ赴き事の次第を告げた。延齢はこれを聞くとすぐに対面を求め、城の疏の内容を先回りして一つ一つ弁解した。城の疏が届いても徳宗はこれを妄言として取り上げなかった。
  • 泌は右補闕・翰林学士梁粛と親しく、繁に著した文を持たせて粛に添削を請わせた。繁も自ら学識があり粛に厚く待遇され師事することを許され日々粛の門に通った。粛が卒すると繁はその妻を娶り乱したため、士君子は皆嘆き驚き長らく用いられなかった。のち太常博士に起用されたが太常卿権徳輿が上奏して斥け、河南府士曹掾に除された。繁の異才と、泌の旧知が宰相にいたことから左右に援けられ郡守を歴任し、学問には勤勉であった。随州刺史を罷めて京師に帰ったが久しく恩に浴せなかった。
  • 韋処厚が宰相に入ると繁を厚遇した。宝暦二年(826年)六月、敬宗の誕生日、三殿に御し、詔して兵部侍郎丁公著・太常少卿陸旦と繁ら三人に浮図・道士と講論させた。九月、大理少卿に除され再び弘文館学士を加えられたが、諫官・御史の上疏が相次いだため宰相はやむを得ず亳州刺史として出させた。亳州の境内にはかつて群盗が横行し民家を掠奪していたが歴代の統治者も捕らえられずにいたところ、繁は密かに謀をめぐらせ賊の巣穴をすべて突き止め出兵して誅殺した。しかし世論はこれを廉察使に先に報告しなかった擅興の罪とみなし、朝廷は監察御史舒元輿を遣わして糾問させた。元輿はかねて繁と不和で、初任の官として事を構えようと功を焦り、獄辞をすべて覆して繁が無辜を濫殺したと上奏し、京兆府で死を賜らせた。当時の人はこれを冤罪と惜しんだ。のちに元輿自身も禍に遭い、人々は因果応報だと語った。
  • 以前、泌が江南に流謫された折、柳渾・顧況と俗世を超えた交わりを結び吟詠を楽しんだ。渾は先に達したため泌も再び朝廷に入ることができた。

附・顧況

  • 顧況は□(底本欠字、地名の記述が失われている)の人。歌詩に優れ性は詼諧で、王公の貴顕と交わっても必ず戯れ侮ったが、その嘲誚は文才に富むため人々はこれを親しんだ。李泌が輔政すると校書郎として召された。泌が再び入って要職に就くと自らも枢要を知る立場と思い込んだが、達官には至らず久しくして著作郎に遷るにとどまった。心楽しまず郷里に帰ることを求めた。同列の官はみな戯弄の対象とされたため多くが況を憎み嫉んだ。李泌が卒した際、況は哭さず調笑の言を発したため憲司に弾劾され司戸に貶された。文集二十巻がある。『贈柳宜城』の辞句をはじめ多くが戯れの調子で書かれており、文体は概ねこの類であった。

況の子・顧非熊

  • 子の非熊は進士に登第し、しばしば使府を佐け、当時詩名があった。

崔造――財政改革を試みるも急進すぎて挫折する

  • 崔造、字は玄宰、博陵安平の人。若くして学に涉り、永泰中、韓会・盧東美・張正則と友となり、皆上元に寄寓し経済の略を語り合い、王佐をもって自任し、当時「四夔」と称された。浙西観察使李棲筠に賓僚として招かれ、累進して左司員外郎に至った。劉晏と親しく、晏が楊炎・庾准に誣奏され誅されると、造もたびたび貶され信州長史となった。
  • 朱泚の逆に際し、造は建州刺史として難を聞くと隣州に檄を馳せ共に義兵を挙げるよう請い、管内から二千人を調発した。徳宗はこれを聞いて嘉した。京師収復後、詔して造を藍田に召したが、舅の源休が逆に伏誅していたことから、上疏して罪を請い、あえて直ちに参内しなかった。天子はこれを礼を知ると評し、慰勉の詔を優渥に賜り、吏部郎中・給事中を拝させた。
  • 貞元二年(786年)正月、中書舎人斉映とともに各々本官のまま同平章事となった。当時、京畿は兵乱の後に連年の蝗旱で府に蓄えがなかった。徳宗は造が直言し能事を為せると見て破格に登用した。
  • 造は久しく江外に従事し、銭穀諸使が上を欺く弊害を憎んでいたため、天下の両税銭物を本道観察使・本州刺史が官を選び都に輸送すること、諸道の水陸運使・度支・巡院・江淮転運使などを廃すること、度支・塩鉄は尚書省本司が判じること、尚書省六職は宰相が分判することを上奏した。戸部侍郎元琇に諸道塩鉄・榷酒等事を、戸部侍郎吉中孚に度支及び諸道両税事を、宰相斉映に兵部承旨及び雑事を、宰相李勉に刑部を、宰相劉滋に吏部・礼部を、造自身は戸部・工部を判じることとした。また凶作のため浙江東西道の毎年の運米七十五万石を両税折納米百万石に改め、両浙節度使韓滉に百万石を東渭橋まで運送させ、淮南濠寿の旨米・洪潭屯米は淮南節度使杜亜に二十万石を東渭橋まで運送させることとし、塩鉄のある諸道は従来どおり巡院を置き、河陰の在米や度支・巡院が運送途中の銭物は度支に管理させ、まだ本道を離れていないものは観察使に発遣させ、中書門下が年末に諸道の成績をまとめて上聞することとした。
  • 造は元琇と親しく、使職を罷めた後は塩鉄の任を元琇に委ねようとした。しかし韓滉が転運を司り朝廷はその漕運に頼っていたため、滉は久しく行ってきた事務を急に改めることはできないとし、徳宗は改めて滉を江淮転運使に戻し、他は造の条奏どおりとした。元琇は滉の剛愎な性格で制しがたいと考え、江南米は江から揚子まで十八里を滉に、揚子以北は元琇に主管させるよう再び上奏した。滉はこれを聞いて怒り、琇の塩鉄司の事を暴いて論奏した。徳宗はやむなく琇の判使を罷め尚書右丞に転じさせた。その年秋、江淮の漕米が大量に京師に至ると、徳宗はその功を嘉し滉に度支・諸道塩鉄転運等使を専領させ、造の条奏はすべて改められた。
  • 世論もまた、造の上奏は旧典に依拠していたが凶荒の年に急な実施は難しかったと評した。造は知政事を罷め太子右庶子に留められ、琇は雷州司戸に貶された。造は当初あまりに鋭意すぎ、琇が改官されると憂懼のあまり病を得て数ヶ月視事できず、翌年九月、卒した。享年五十一。

關播――柔弱で人を見る目に欠けた宰相

  • 関播、字は務元、衛州汲の人。天宝末、進士に挙げられた。鄧景山が淮南節度使のとき従事に招かれ、累進して衛佐評事を授けられ右補闕に遷った。物理を語るのに優れ釈氏の学にとりわけ精通した。大暦中、神策軍使王駕鶴の妻関氏が播と同宗であったため厚遇されたが、元載はその交往を憎み河南府兵曹に出させ数県を摂職させたがいずれも政績があった。
  • 陳少游が浙東・淮南を領すると再び判官に招かれ、検校金部員外・滁州刺史摂職を歴任した。李霊曜が兵を阻み梁汴で跋扈した際、少游は自ら兵を淮上に鎮め各地で盗賊が蜂起したが、播は州兵を調閲して守備させ、政は清浄簡恵で盗賊もなく人々は大いに安んじた。楊綰・常袞が知政事のとき、播を都官員外郎に推薦した。
  • 徳宗の即位後、湖南の山洞で王国良が衆を集めて盗となったため、播を宣撫に遣わした。出立前、別殿で対面し天子が政理の要を問うと、播は「政の本は道ある賢人を求めることにあり、それでこそ治まる」と答えた。天子が「詔を下して賢良を求め、自ら試問するとともに使者を遣わし黜陟させ広く搜訪させ、有能な者を登用して治めの助けとしたい」と言うと、播は「詔を下して賢良を求め黜陟に挙薦させても、名詞に長けた士が得られるだけで、道ある賢人が牒に応じて選挙に加わるはずがない」と答えた。天子はこの言を喜び「卿はまず行け、戻ったら政事を論じよう」と言った。播はさらに「今、詔を奉じて招撫するが国良が命に従わなければ、私は恩命を宣べたのちすぐに近隣の境に速やかな出兵・討滅を語りたい」と述べ、天子は「卿の言は朕の意に深く合う」と答えた。使命から戻ると兵部員外に改められ河中少尹に遷った。
  • 建中初、張鎰が河中少尹となり、鎰が入相すると二年(781年)七月、播は給事中に遷った。旧例では諸司の甲庫はすべて胥吏が管掌していたが弊害が久しく、播が初めて士人に管掌させることを建議し今も適当とされている。刑部侍郎・奉迎皇太后副使に転じた。盧杞は播が柔弱で御しやすいと考え、しばしば推薦した。まもなく吏部侍郎に遷り、刑部尚書・知刪定に転じた。上元中に古今の名将十人を武成王廟に配享する詔があり文宣王廟の儀に倣うこととされていたが、播は「太公は古来大賢と称されるのに配下を亜聖と称するのは義において不安である。また孔子の十哲はいずれも当時の弟子だが、今選ばれる名将は年代が異なり義においても事においても不当である」として名将配享の儀と十哲の称の削除を請い、許された。
  • 建中三年(782年)十月、銀青光禄大夫・中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士・修国史を拝した。当時政事は盧杞が決し、播はただ恭順に振る舞い取り入るのみであった。人を見る目に乏しく、大言虚誕を好む者を播は必ず喜んで親信した。李元平・陶公達・張愻・劉承誡らはいずれも言辞が誇大で功名を立てられそうに見えたが実際は微材薄芸に過ぎなかった。播はしばしば元平らを将相の器と奏し試用を請い、天子もこれを是として元平を補闕とした。
  • 淮西節度使李希烈が叛乱を起こすと、汝州が要地であるため刺史を選ぶことになり、播は元平を推薦し汝州刺史とし、まもなく検校吏部郎中・汝州別駕・知州事を加えた。しかし元平は着任後十日で希烈に捕らえられ、汝州は賊に陥落し、朝野の嘲笑を買った。これにより公達らも任用されなかった。
  • 播は盧杞らとともに行在の奉天に扈従したが、まもなく杞・白志貞らが貶黜されても播はなお知政事にとどまり、朝野は不当と騒いだため罷相され刑部尚書に改められた。大臣韋倫らは朝廷で「宰相が謀猷輔翼できず今日に至ったのに、なお尚書でいるとは痛心の極みだ」と泣いて訴えた。
  • 貞元四年(788年)、回紇が和親を求め咸安公主を可汗に降嫁させることとなり、播は本官に検校右僕射・兼御史大夫を加えられ持節して公主を送り可汗を冊立する使に充てられた。使は往復とも清倹謹慎で蕃人はこれを喜んだ。帰還後、兵部尚書に遷ったが病を理由に固辞し、太子少師致仕を願った。致仕後は僮僕車騎を減らし門を閉じて静を守り外事に関わらなかったため士君子はこれを重んじた。貞元十三年(797年)正月、卒した。享年七十九。朝を一日廃し太子太保を贈られた。

附・李元平

  • 李元平は宗室の子。湖南観察使蕭復の判官となり試大理評事を授けられた。性は疎放傲慢で大言を敢えてし兵を論じることを好んだが、天下の賢士大夫の意に適う者はなく人々の怒りを買っていた。関播はこれを重んじ将帥に任じようとした。李希烈が反すると汝州が賊と接壌するため刺史韋光裔が懦弱で任に堪えぬとされ、播は元平を盛んに推し、特に召見して左補闕に抜擢し、数日で検校吏部郎中・兼汝州別駕・知州事に登用した。元平は着任後、城郭の修繕に人夫を募ったが、希烈はこれに乗じて勇士を募集に応じさせ築城の役に紛れ込ませ数百人が入り込んでも元平は気づかなかった。希烈の偽将李克誠が数百騎で城に突入すると、内応した募集の者が呼応し元平を縛って連れ去った。希烈に見えると元平は地に伏し汚れた姿であった。希烈は元平が須(ひげ)もなく矮小なのを見て克誠に「お前に李元平を捕らえさせたのに、なぜ子供を連れてきたのか」と戯れ、さらに「盲目の宰相がお前を私に対抗させようとしたとは、私を軽く見たものだ」と罵り、偽の御史中丞に任じた。播は元平が用いられたと聞き「李生の功業は成った」と人に語り、必ず希烈を打倒し功を立てると信じていた。まもなく希烈は元平を偽の宰相に用い、ある者が元平に二心があると告げると、元平は自ら指を一本断って誓ったという。希烈が死ぬと、賊中でわずかに謀に関与したとの告発があったが死は免れ珍州に流された。赦により剡中に帰ることを得たが、浙東観察使皇甫政がその帰還を上奏したことで天子の怒りを買い、再び賀州に流されて死んだ。

史臣曰

  • 史臣曰く――祭祀は先王の制度であり先祖を奉ずるものだが、怪力乱神を孔子は語らなかった。左道と称するものには古来の戒めがある。王璵は鬼神を仮って将相にまで至り、天に代わる位にありながら乱政の源を助長した。李国禎は妖言で衆を惑わし勝手に祀典を広げたが、梁鎮は正士として抗疏し天子の心をようやく悟らせた。李泌は進むべき時を見て退くことの難しさを知らなかったが、高邁で機知に富む士ではあった。相位にありながら鬼神を語るのは狂妄浮薄の跡というべきである。『王制』に「左道を用いて政を乱す者は殺す」とあるが、恐れるべきではないか。李繁の醜行は当時から見捨てられ、ついに冤に陥ったのも平素の行いによるものであろう。崔造は臣として礼を得たが事に臨んでは能力を欠き、関播は位にあって取り入ることに終始し人を用いて事を敗った。いずれも国器ではないのに台司を歴任し、人を失えば国も危うくなる道理を示している。

【贊】

贊に曰く――王璵・李泌・崔造・関播、いずれも宰相の器ではなかった。李国禎の左道に対し、梁鎮の直言こそ正しかった。