舊唐書卷124 列傳 薛嵩・令狐彰・田神功・侯希逸・李正己
薛嵩――出自と経歴
- 薛嵩は絳州万泉の人。祖父の仁貴は高宗朝の名将で平陽郡公に封じられた。父の楚玉は范陽・平盧節度使であった。嵩は若くして門蔭により身を立てたが家産を顧みず自由に過ごし、膂力があり騎射に長けたが読み書きはできなかった。天下に兵乱が起きると軍伍に身を投じ賊徒に従った。
- 廣德元年(763年)、東都が平定されると、当時皇太子が天下兵馬元帥であり仆固懐恩を東の河朔平定に遣わした。嵩は賊のために相州を守っていたが、賊将朝義の兵が潰れ王師が至ると聞き、恐れおののき懐恩の馬前に迎え出て拝礼した。懐恩はこれを赦し旧職に留めた。当時懐恩にはすでに二心が芽生えていた。
- 懐恩は河朔平定を終えると嵩と田承嗣・張忠志・李懐仙に河北道を分割して治めさせることを奏上した。詔で嵩は相州刺史・相衛洺邢等州節度観察使とされ、承嗣は魏州を鎮め忠志は恒州を鎮め懐仙は幽州を鎮め、それぞれ数州の地を領した。多事の後で人心を安んじることを優先し重い任を嵩に委ねたのであった。
薛嵩の統治と死
- 嵩は恩に感じ職務に励み、数年のうちに管内はおおむね治まり、累進して検校右僕射となった。大歴八年(773年)正月に卒した。詔で弟の崿に留後を知らせ、累って崿に太子少師を加えた。大歴十年(775年)正月丁酉、昭義軍兵馬使裴志清が統率していた兵を盗んで崿を追放し、衆を挙げて田承嗣に帰属し反した。崿は洺州へ逃れ入朝を願う表を上げ許された。京師に至ると素服で銀台門にて罪を待ち、詔でこれを赦した。
嵩の子・平――少年で相続
- 嵩の子平は十二歳で磁州刺史であった。嵩が卒すると軍吏は河北の故事に倣い平を脅して留後の職務を担わせようとしたが、平は偽って承諾しつつ叔父の崿に譲り、一夜で喪に服して帰った。喪が明けると累進して右衛将軍となり南衙にあること三十年に及んだ。宰相杜黄裳は深くこれを重んじ汝州刺史・兼御史中丞に推薦し、治政は能吏として知られた。
- 元和七年(812年)、淮西で戦が起こると左龍武大将軍から兼御史大夫・滑州刺史・鄭滑節度観察等使を授けられ、累々と戦功を挙げた。滑州城の西二里に黄河があり毎年水害に悩まされていた。平は古い河道を探し衛州黎陽県の境に接することを見出した。魏博節度使田弘正とともに上奏し、古河の南北十四里を開き旧河を決壊させて水勢を分けると、滑州の人々は水害を免れるようになった。
- 鎮にあること六年、召されて左金吾大将軍となった。まもなく再び鄭滑節度観察使となった。李師道が平定されると朝廷は東平十二州を三道に分け、淄・青・斉・登・莱の五州を平盧軍とし、平を節度観察等使としさらに新羅・渤海両蕃使を押させた。
反乱鎮圧と晩年
- 長慶元年(821年)、幽州・鎮州が叛くと杜叔良が横海の全軍を統べて討伐したが勝てず、王廷湊は牛元翼を深州に包囲した。棣州は賊に苦しめられ、朝廷は平に別働隊で棣州を援護させることとし、平は将李叔佐に兵五百を率いさせ救援に向かわせた。
- 数ヶ月経つと刺史王稷の兵糧供給がやや薄くなり、兵士は怨み怒り叔佐はこれを制御できず夜に潰走して帰った。突将馬狼児を帥に推挙し、青城鎮に至ると鎮将李自勧を脅してその兵を併せ、次に博昌鎮に至ってその鎮兵も脅し取り合わせて七千余人を得て、青州城に迫った。
- 城中の兵は敵わず、平は府庫と自らの家財をすべて出して精鋭二千を募り迎撃した。先んじて騎兵で賊の家族と輜重を襲うと、賊衆は驚き振り返り大敗した。狼児とその同志十数人は脱出して隠れたが、残りの党は降伏し、遅れて降った者は鞠場(球場)で斬られた。翌日、狼児も捕えられ処刑され、脅されて従った者は郷里へ帰された。詔で右僕射を加えられ魏國公に進封され、これにより遠近は皆平の威略に畏れ服した。
治績と栄達
- 鎮にあること六周年、兵甲は充実し賦役は均等であった。この頃入朝すると百姓は道を遮って留任を願い、数日かかってようやく出発できたほどであった。当時の人々はこれほどの節制はまれであると評した。寶暦元年(825年)、朝廷へ帰ると検校左僕射・兼戸部尚書に進められた。一月余りで再び検校司空・兼河中絳隰節度観察等使となった。
- 大和二年(828年)、晋州・慈州も河中に隷属させられ兵三千を増やされ検校司徒を加えられた。河中に在ること六年、召されて太子太保を拝命した。翌年、上疏して致仕を願い出て司徒として致仕し、一年後に卒した。太傅を冊贈された。
嵩の族子・雄
- 嵩の族子の雄は初め嵩の属吏で衛州の事を知っていた。嵩が没すると特詔で衛州刺史を授けられた。魏博節度田承嗣が乱に誘ったが雄は従わず、承嗣は刺客を遣わし密かにこれを殺した。
令狐彰――出自と生い立ち
- 令狐彰は京兆富平の人。遠祖は敦煌から移り住み、代々冠冕(高官)を継ぐ家であった。父の濞は天寶中に鄧州録事参軍を務め清廉で知られ、本道采訪使宋鼎が判官に招いた。初め范陽県尉であったとき幽州の女性と通じ彰が生まれた。任期が満ちると彰を母のもとに残したため、彰は幼少より范陽で育った。
- 気概があり書伝を渉猟し文義におおよそ通じ弓矢に長けていた。仕官の籍に入り従軍し安祿山に仕えた。天宝中、軍功により累進して左衛員外郎将に至った。
帰順と忠義
- 安祿山が反すると本官のまま賊党張通儒に従って京師に赴き、通儒は彰を城内左街使に偽官として任じた。王師が両京を収復すると通儒らとともに河朔へ逃走し、さらに逆賊史思明に降り博州刺史・滑州刺史に偽官として任じられ数千の兵を統べて滑台を守らされた。
- 彰は忠義に感激し名節を立てることを思い、密かに帰順を謀った。折しも中官楊万定が滑州の軍を監視しており、彰は水泳に巧みな勇士を募り夜に河を渡らせ表を万定に届けさせ、統率する賊の一軍と州県を挙げて帰順することを願い出た。万定はこれを奏上した。
- 祿山の反乱以来、賊のために守っていた者で州を挙げて朝廷に帰順した例はなく、粛宗は彰の表を得て大いに喜び書を賜って労った。当時彰は杏園渡へ鎮を移していたが、これを思明に疑われ、思明は側近の薛岌に精鋭を率いさせ杏園を包囲攻撃させた。彰は三軍に明らかに逆順の理を示し人心は感じ帰し皆力を尽くして用いられた。賊兵と戦い大いにこれを破り包囲を破って脱出し、麾下の将士数百人とともに万定に従い入朝した。
節度使としての功績
- 粛宗は大いにこれを賞賛し礼遇は甚だ厚く、邸宅一区・名馬数匹・帷帳什器を盛んに賜り、御史中丞・兼滑州刺史・滑毫魏博等六州節度を拝命し銀青光禄大夫を加えられ滑州を鎮め残賊の平定を委ねられた。史朝義が滅びると御史大夫に遷り霍國公に封じられ、まもなく検校工部尚書を加えられた。まもなく検校右僕射となり、他はそのままとされた。
治政と晩年
- 彰は職にあって風化を大いに行き渡らせた。滑州は傷跡がまだ癒えず城邑は荒廃していたが、彰は自ら模範を示して民を励まし専ら農業と軍事に意を注ぎ、内は軍を検分し外は民を治め、法令は厳格で人々は敢えて犯さなかった。数年のうちに田畑は大きく開かれ倉庫は充実し、毎年の王税と貢献はかつて欠けたことがなかった。
- 当時吐蕃が辺境を犯し防秋(秋の防衛)のため兵を徴発した際、彰は属吏に軍伍を統率させ滑州から京の西郊まで二千里に及ぶ道のりを、甲士三千人がそれぞれ自ら糧を担って行進した。通過する州県では糧食の供給を申し出たがいずれも辞退して受けず、里閭を通っても秋毫も犯さなかったため、識者はこれを称えた。
- しかし性は猜疑心が強く、人が意に逆らえば省察せずただちに処刑してしまうことがあった、これがその短所であった。
遺表による自己弁明と推薦
- 臨終に際し、自ら辞表を書き子には忠孝と節操を守るよう戒め、自らに代わる有能な人材を推挙した。その表の要旨は、陛下に仕えて以来藩守の任を務め重い恩を受けたが節を尽くしきれぬまま聖朝に永く別れることになり、その痛みは心骨に染みることを述べ、頓首して哀願した。
- 自分は性が剛直で不器用ながらも包容力はあったこと、先に魚朝恩が亳州を掠奪しようとした際自分と怨みを結び、その横暴のさなか自分は敢えて入朝せず天誅を待って参内しようと思っていたこと、朝恩が死ぬと自分は病苦に見舞われ家の喪にも遭い、体力は衰え目もかすみ行動には人手が要り拝礼も舞もできず数ヶ月にわたり欠礼が続いたこと、交代を願い出ようとしたがその日その日で快方に向かうことを望み健康を回復して朝見の栄を得たいと願っていたこと、冬の末から旧病が悪化し瘡腫も現れ息も絶え絶えとなりついに死を覚悟したこと、天子の御前に一度も参内できず龍顔を拝することもできず礼を全うできず忠誠を尽くしきれなかったことは自分の大罪であり先代に恥じ聖朝に申し訳が立たないことを述べた。
- さらに、自分は誠を尽くして上に仕え大節を立てることを誓ってきた、天地神明が実に自分の心を知っている、心が行動を伴わなかったことを言葉にするだけで痛ましいこと、倉糧・銭絹・羊馬牛畜などはすべてすでに手配してあること、三軍の兵士や州県官吏らはそれぞれ旧職を守り聖恩を待つべきであること、吏部尚書劉晏と工部尚書李勉は識見忠貞で大事を委ねるに堪える人物であるため陛下には速やかに検校させ聖心に応えていただきたいこと、自分の子建らは不正を行わず行いも道に近い、今、東都の私邸へ帰らせ将来国に報い自分の魂を慰めさせたいこと、臨終の混乱の中で伏して哀しみむせぶことを述べた。
上の詔と褒美
- 上はこの表を読み長く嘆き悲しんだ。特に詔を下して褒め称え「内には社稷を守り外には国境の事を修め、この二つを一体として万邦を鎮めることこそ、有終の美を成すというべきであり不朽の功績である。前代の文武に通じた賢人を見るに、時の危難を正し大化を助け君主を忘れなかった者たちに、感嘆し嘆息しなかったためしはない。今、忠烈の臣彰があった。剛直な性格を外に表しながら純和の心を内に積み、孝敬を本とし才略で補い、藩鎮を統べ王家に労苦を尽くした。かつて母が老いたときには自ら養育に努め、どうして闕を慕う思いがなかろうか、それでも長年職務にとどまった。母の喪に服す際には優詔でその職を留めさせたが、悲しみのあまり足を痛め涙を尽くして視力を失うほどであった。朝見の機会もついに叶わなかった。その風采を思うたびに久しく心にかけていたが、たちまち世を去ったことを深く悼む」との内容であった。
- さらに「ああ、病の最中、その情を自ら疎かにすることなく隠すこともなく言葉に表した。節を全うし常道を守り軍簿を条上し、良帥を選ぶことを朝廷に委ねることを求めた。その遺児を東洛へ帰らせ、忠をもって国に報いることを教え礼をもって喪に服することを約させた。古人のいう『生きては利を交わさず、死しては子を託さず』とは、まさにこのことではないか。その節操と気概はまことに誠実であり比類なく、これを思うと感傷にたえず、心に留めてますます悲しみを増す。東州の士大夫が王を勤め主を尊ぶ志をここに見ることができる。その美徳を称え模範として示すべく、史館に伝え名臣として顕彰せよ」とされた。
- 子には建・運・通がいる。
令狐彰の子・建
- 建は大歴四年(769年)十二月、彰が入朝させ特に兼御史中丞を加えられ滑州へ戻った。彰が卒すると滑州の三軍は喪服中の礼を破って建に留任を迫ったが、建は死を守って従わず一家を挙げて京師へ帰った。喪が明けると累進して右龍虎軍使に至った。
- 徳宗が涇原の兵乱で奉天へ行幸した際、建はちょうど軍中で射術を教えていたため四百人を率いて駕に随い後殿となった。奉天に至ると行在中軍鼓角使とされた。梁州へ行幸すると行在右廂兵馬使・右羽林大将軍・兼御史大夫に転じた。興元元年(784年)六月、検校左散騎常侍・行在都知兵馬使・左神武大将軍を加えられた。
建の妻をめぐる事件
- 建の妻李氏は恒帥宝臣の娘であったが、建はこれを嫌って棄てようとし、傭教(雇われ教師)の邢士倫と密通していると誣告した。建は士倫を召して杖で打ち殺し、妻を追放した。士倫の母はこれを聞き悲しみに耐えられず亡くなった。李氏は取り調べを求め、詔で三司に糾問させた。李氏と奴婢の証言により誣告であることが明白になり、建はついに自首して罪を認めた。
- 建はたまたま恩赦により罪を免れた。徳宗は詔で「子として民を育て暴を禁じることができなかったのは朕の責であり、これを深く憂える。常膳から五百千文を差し引き士倫母子の葬儀に充てよ。その父はすでに衰え頼るところもない、深く憐れみ京兆尹に厚く救済させよ」と述べた。
- 貞元四年(788年)七月、前官のまま右領軍大将軍とされた。五年三月、罪なき者を専断で殺したことにより、徳宗は旧勲を思い特別に容赦したが、建がさらに弁明を訴えその言葉が虚偽に満ちていたため旋州別駕同正に貶され、貶所で卒した。貞元六年九月、右領軍大将軍を贈られた。十年、揚州大都督を贈られた。
令狐彰の子・運
- 運は東都留守の将であり、賊を追って郊外へ出た。その日、道で転運の絹を掠奪する事件が起こり、杜亜は運が富裕な家の子であることからその仕業と疑い、判官穆員と従事張弘靖に共に取り調べさせた。員と弘靖はいずれも運の職が牙門にあるため決して盗みをするはずがないと考え取り調べを拒んだが、亜はこれを聞き入れず怒って員らを罷免し、親事将武金に取り調べさせた。
- 金は運の従者十余人を鞭打ち、一人は打たれて死に九人は拷問に耐えかね自ら罪を認めたが結局贓物の証拠はなかった。亜はこれを奏上し運を嶺表へ流すことを求めた。徳宗は侍御史李元素・刑部員外崔従質・大理司直盧士瞻の三司に運の獄を再審させ、その結果、運の行動は盗みではないと明らかになったが、かつて自宅で人を捕らえて拷問したことがあったため、帰州へ配流とされた。武金は暴虐を働き威を振るい、人に嘘の自白を教えたことから建州へ配流とされた。
- その後一年余り、斉抗が転運の絹を掠奪した賊の郭鵠・朱瞿曇ら七人とその贓絹を捕えた。詔で杜亜と留台に共同で取り調べさせると全員が罪を認めた。しかし結局運の罪は雪がれず、運は帰州で死に、人々はこれを冤罪と見なした。
令狐彰の子・通
- 通は元和中、宰相李吉甫が「私が見るところ代宗朝の滑州節度使令狐彰は臨終の際に上表し土地と兵甲をことごとく朝廷に籍上し諸子を表とともに闕に帰らせました。代宗は彰の遺表を百官に示し、当時の官にあった者はこれを聞いて感嘆しない者はありませんでした。今、次子の通が存命しております。私は常々、彰が河朔の他の諸鎮とともに進んだのに、他の鎮の者たちが子に伝え孫に付けて数代にわたり栄華を誇る中、彰だけが忠義に感激し国に奉じ家を忘れ子を朝廷に遣わし土地を先帝に帰したことを思っています。貞元中、長子の建は罪に問われ施州で死に、末子の運も無実の罪で帰州に流されました。忠義の人にどうして励みを与えられましょうか。今、通が幸い存命であり明聖の御代に巡り会えました。陛下には彼を召して語り合われ、もし用いるに堪える人物であれば表彰し登用されますよう」と奏上した。
- 憲宗は彰の忠義を思い、通に贊善大夫を授け宿州刺史として出した。当時淮西・蔡州討伐が行われており泗州刺史に任じられた。年内に壽州団練使・検校御史中丞に改まった。賊と戦うたびに必ず捕獲の戦果を誇張し、賊数人を得ればすぐに露布(戦勝報告)を上げた。宰相武元衡はこれを笑って上に取り次がなかった。もし敗戦があれば決して報告しなかった。
- 後に賊に攻められ境上の城柵はすべて陥落し、通は固州城へ逃げ壁を閉じて出なかった。憲宗は李文通を遣わし宣慰させ、まもなくその到着を計り通に代わらせ、通は昭州司戸に貶され撫州司馬に移された。十四年(819年)、召されて右衛将軍とされたが、制が下ると給事中崔植は制書を返却し、通が先に壽州刺史として律を失ったことを理由に急に登用すべきでないと述べた。憲宗は宰相に門下省を諭させ、通の父に国への功があり、その子を追放すべきでないと述べさせ、制命はそのまま執行された。一年余りで出て淄州刺史となった。長慶初年、召されて左衛大将軍となり卒した。
田神功――出自と経歴
- 田神功は冀州の人。家はもとより微賤であった。天寶末年、県の裏胥(下級役人)であったが、河朔で兵乱が起こると幽州・薊州で働いた。上元元年(760年)、平盧節度都知兵馬使・兼鴻臚卿となり、鄭州で賊四千余を破り逆賊の大将四人を生け捕り牛馬器械は数えきれなかった。
- まもなく鄧景山に招かれ揚州に至ると百姓・商人の資産を大いに掠奪し郡内の家々はほぼ暴かれ、商胡の波斯人で殺された者は数千人に及んだ。上元二年(761年)二月、逆賊劉展を生け捕りにし闕下へ送った。展を捕えた功により累進して検校工部尚書・兼御史大夫・汴宋等八州節度使に至った。
- 大歴三年(768年)三月、京師に朝見し馬十匹・金銀器五十件・繒彩一万匹を献上した。当時郭子儀が入朝し私邸に宰臣らを招いて宴を求めたのに倣い、神功もこれを願い出て許された。まもなく検校右僕射を加えられ尚書省に赴いて事務を執り、特に宰臣以下百官に見送らせる詔があり知省事も加えられて寵遇された。神功は忠実質朴で勇敢であることで当時称された。
- 大歴八年(773年)冬、再び朝見に赴いたが病を得て二晩で世を去った。上はこれを悼み音楽を止め三日間政務を停め、司徒を贈り絹一千匹・布五百端を賻贈した。特に百官の弔問を許し霊座に屏風と敷物を賜り千人の僧の斎会を催して追福させた。至德以来、将帥で三事(三公)を兼ねなかった者の哀栄でこれに比する例はなかった。
田神功の弟・神玉
- 弟の神玉は曹州刺史から権汴州留後となった。大歴十年(775年)正月、検校兵部郎中・兼御史中丞を加えられ汴州刺史となり汴州節度観察留後事および河陽・沢潞等の兵馬を知り、淇門に直接拠点を構え李承昭とともに魏博の田承嗣を討った。大歴十一年(776年)に卒し、詔で滑州の李勉がこれに代わった。
侯希逸――出自と経歴
- 侯希逸は平盧の人。若くして武芸を学んだ。天寶末年、安祿山が反すると腹心の徐帰道を平盧節度に任じた。希逸は当時平盧の裨将であり、安東都護王玄志とともに兵を率いて帰道を襲い殺しこれを奏上すると、詔で玄志が平盧節度使とされた。
- 乾元元年(758年)冬、玄志が病没すると軍人は共に希逸を推して平盧軍使とし、朝廷はこれにより節度使を授けた。しばしば賊に迫られる中、希逸は将士を励まし度々賊徒の向潤客・李懐仙らを破った。しかし時を経ても救援がなく奚虜にも侵されたため、希逸は軍二万余を率いて戦いながら移動し青州に至った。
- 折しも田神功・能元皓が兗州にいたため、青州はそのまま希逸のものとなり、詔で希逸に平盧・淄青節度使を加えた。これより今に至るまで淄青節度は皆平盧の名を帯びるようになった。
治政と晩年の衰え
- 希逸は初めて淄青を領した頃、大いに評判が良く軍を治め農を勧め遠近から称賛された。寶應元年(762年)、諸節度とともに史朝義討伐に加わりこれを平定し検校工部尚書を加えられ実封を賜り凌煙閣に肖像を描かれた。私事の喪により官を退いた。大歴十一年(776年)九月、喪中を起こして検校尚書右僕射・上柱国となり淮陽郡王に封じられた。
- 後に次第に放縦になり政事は怠惰になり、特に仏教を篤く崇めまた狩猟遊興を好み、事業を興し寺院を建立し軍州はこれに苦しんだ。永泰元年(765年)、巫女とともに城外で夜を過ごした際、軍士は城門を閉じて入れなかった。希逸は朝廷へ逃げ帰り検校右僕射を拝命した。久しくして知省事を加えられ司空に遷った。詔が出た日に卒した。三日間政務を停め太保を贈られた。
李正己――出自と生い立ち
- 李正己は高麗人。もとの名は懐玉、平盧で生まれた。乾元元年(758年)、平盧節度使王玄志が卒すると、折しも勅使が来て問状していたが、懐玉は玄志の子が節度使になることを恐れこれを殺し、軍人とともに侯希逸を推して軍帥とした。希逸の母は懐玉の叔母にあたる。
- 後に希逸とともに青州に至り累進して折衝将軍となり、驍勇で力があった。寶應中、諸軍が史朝義を討伐し鄭州に至った際、回紇は強暴で恣にふるまい諸節度もみなこれに屈していたが、正己は軍候として独りその気勢を挫こうとした。回紇と角力を行い諸軍が集まって見物する中「後れた者は打ち据える」と約すと、追いつかれても先んじ、正己はその襟をつかんでその背を打ち据えると、回紇の兵は失禁するほど恐れ、諸軍は笑いはやし虜は恥じ入りこれ以後は横暴を働かなくなった。
節度使への就任
- 節度使侯希逸は正己のいとこにあたり、兵馬使として用いた。正己は沈着果断で衆望を得たが、希逸は事に事寄せてその職を解いた。軍中では皆その処分は不当と語り、廃すべきでないとされた。折しも軍人が希逸を追放し、希逸は逃走した。そこで正己を帥に立て、朝廷はこれにより平盧淄青節度観察使・海運押新羅渤海両蕃使・検校工部尚書・兼御史大夫・青州刺史を授け、今の名(正己)を賜った。まもなく検校尚書右僕射を加えられ饒陽郡王に封じられた。大歴十一年(776年)十月、検校司空・同中書門下平章事となった。十三年、宗室の属籍に入ることを願い出て許された。
淄青の統治
- 政は厳酷で、赴任先では人々が敢えて私語も交わさなかった。初め淄・青・斉・海・登・莱・沂・密・徳・棣等州の地を持ち、田承嗣・令狐彰・薛嵩・李宝臣・梁崇義と互いに勢力を助け合った。大歴中、薛嵩が死に李霊曜の乱が起こると諸道は共にその地を攻め、得た者はそれぞれ自らの領地とした。正己はさらに曹・濮・徐・兗・鄆を得て合計十五州を領し、内心では同列を見下し渤海の名馬を市で買い年々絶えることがなかった。
- 法令は統一され賦税は均一で軽く、群雄の中で最も強大と称された。かつて田承嗣を攻めその威は近隣に轟いた。検校司空・左僕射・兼御史大夫を歴任し平章事・太子太保・司徒を加えられた。
死と子への継承
- 後に青州から鄆州に居を移し、子の納と腹心の将にその地を分けて治めさせた。建中以後、朝廷を畏れ多くが不安を抱いた。汴州の築城の噂を聞くと兵を済陰に移し駐屯させ昼夜訓練して備えた。河南は騒然とし天下の憂いとなり急使が馳せ回り兵を徴発してさらに備えを固めた。また徐州に兵を増やし江淮を扼したため、運輸の道はこれにより変更された。まもなく癰疽を患い卒した。時に四十九歳。子の納は密かに兵政を独占し数ヶ月喪を秘して発表しなかった。納が兵を構えたが、興元元年(784年)四月に帰順し、ようやく正己に太尉が贈られた。
李納――経歴
- 納は若い頃、正己が兵を率い秋の防備に当たらせた際、代宗は召見してこれを称え奉礼郎から超えて殿中丞・兼侍御史を拝命し紫金魚袋を賜った。検校倉部郎中を歴任し父の兵を総べ淄州刺史に奏署された。正己が兵を率い田承嗣を撃った際、節度観察留後に奏署された。まもなく青州刺史に遷り、さらに行軍司馬・兼曹州刺史・曹濮徐兗沂海留後に奏署され御史大夫も加えられた。
建中の乱
- 建中初年、正己・田悦・梁崇義・張惟嶽はいずれも反した。建中二年(781年)、正己が卒すると納は喪を秘し父の軍を統べ、そのまま乱を続けた。悦と濮陽で合流し大将衛俊に兵千を率いて悦を救援させたが、河東節度使馬燧に洹水で破られほとんど全滅した。
- 詔で諸軍にこれを討たせた。納の従叔父洧は徐州を挙げ、李士真は徳州を挙げ、棣州の李長卿もその州を挙げて帰順した。納は彭城が険阻な要地であること、また洧が宗族に背いたことに怒り、全軍を挙げてこれを包囲した。詔で宣武軍節度劉洽に諸軍を率いてこれを救わせ、城下で納の軍を大破した。
- 後に濮陽で兵を構えると洽はその外城を攻め破った。納は城上から洽を見て涙を流し罪を悔い、判官房説に弟の経と子の成務を京師へ遣わし洽を通じて帰順を願い出た。折しも中使宋鳳朝がこれに応対し、納が窮していると見て破って自らの功にしようと考え上には赦免しないよう奏上した。上はそこで説らを禁中に械で繋がせた。納はこうしてまた鄆州へ帰り、李希烈・朱滔・王武俊・田悦と再び合謀していずれも反し、偽って斉王を称し百官を建置した。
興元の詔と帰順
- 興元の際、自ら罪を認める詔(罪己詔)が下ると納は帰順に応じ、詔で検校工部尚書・平盧軍節度・淄青等州観察使を加えられた。まもなく検校右僕射・同中書門下平章事となった。当時希烈が陳州を包囲しており、納は兵を遣わし諸軍とともに奮戦し大破してその包囲を解いた。検校司空を加えられ五百戸に封じられた。貞元初年、鄆州は大都督府に昇格し長史に改授された。三十四歳で在職のまま薨じた。三日間政務を停め賻贈された。
李師古――経歴
- 子の師古は累って奏上され青州刺史に至った。貞元八年(792年)、納が死ぬと軍中は師古をその地位に代えて上に請い、朝廷はこれによりこれを授けた。喪中を起こして右金吾大将軍同正・平盧および青淄斉節度営田観察・海運陸運押新羅渤海両蕃使を拝命した。
- 成徳軍節度王武俊が軍を率いて徳州・棣州の二州に至り蛤蟆と三汊城を取ろうとした。棣州の塩池と蛤蟆は毎年数十万斛の塩を産出しており、棣州が淄青に属していた頃、刺史李長卿はその城を朱滔に献じ、蛤蟆は納が占拠していたため城を築いて防衛し塩の利を専有していた。その後武俊は朱滔を破った功により徳州・棣州の二州が武俊に隷属することとなったが、蛤蟆はなお納の防衛下にあった。
- 納は初め徳州の南に河をまたいで城を築いて守り、これを三汊と呼んで田緒と結んで魏博への道を通じ、徳州を掠奪して武俊の患いとなっていた。納が卒し師古が継ぐと、武俊は師古が若く即位したばかりで旧将の多くも死んでいたことから軽んじ、蛤蟆と三汊を取ることを名目に兵を率いたが、実は納の境を窺うことが目的であった。師古は棣州の降将趙鎬に迎撃させた。武俊は子の士清に先に滴河を渡らせようとしたが、士清の陣営で火が起こり軍は驚き不吉と見て進まなかった。徳宗が使いを遣わし諭すと武俊は軍を罷めて帰った。師古は三汊口の城を破棄し詔旨に従った。
- 師古は表向きは朝命を奉じていたが、常に侵略の謀略を蓄え、亡命者を招いて厚く養った。朝廷に罪を得て師古のもとへ逃れた者は登用した。外に赴任させる者があれば必ずその妻子を人質に留め、もし朝廷への帰服を謀る者がいれば事が漏れた際にその一族を族滅したため、人々は死を恐れ異心を抱かなかった。
師古の晩年
- 貞元十年(794年)五月、師古は喪が明け検校礼部尚書を加えられた。十二年正月、検校尚書右僕射。十一月、師古は母の喪に服し、喪中を起こして左金吾上将軍同正となった。十五年正月、師古・杜佑・李鑾の妾たちはいずれも国夫人とされた。十六年六月、淮南節度使杜佑と同じ制で中書門下平章事を加えられた。
- 徳宗の遺詔が下った際、哀を告げる使者がまだ到着していなかったが、義成軍節度使李元素は師古と隣接する道であることから遺詔の写しを師古に送り隠すところがないことを示した。師古は将士を集め元素の使者を引き出して「私は近頃邸吏の状を得て聖躬(皇帝)が万福であられることをすっかり承知している。李元素はまさか反逆を望んでいるのではないか、それゆえ突然遺詔を偽って写し送ってきたのだろう。私は三代にわたり国恩を受け位は将相を兼ねている、賊を見て討伐しないわけにはいかない」と告げた。
- そこで元素の使者を杖で打ち、急ぎ元素討伐を名目に出兵し国喪に乗じて州県を侵そうとした。しかしまもなく順宗が即位したことを聞くと師古は兵を罷めた。後に累進して検校司徒・兼侍中に至った。卒して太傅を贈られた。
李師道――継承をめぐる混乱
- 師道は師古の異母弟。母は張忠志の娘。師道は当時密州の事を知っていたが、師古が死ぬとその奴僕は喪を発表せず密かに師道を密州から迎えてこれを奉じた。朝命が久しく至らないうちに、師道は将吏と謀り、境の四方に兵を加えようとする者もいたが、判官高沐がこれを固く止めさせた。
- そこで両税の進上と塩法の遵守、官員の申告を願い出て、判官崔承寵・孔目官林英を相次いで京師に遣わし事を奏上させた。当時杜黄裳が宰相であり、その体制がまだ定まっていない隙に乗じて計をもってこれを削ろうとしたが、憲宗は蜀の乱がまだ収まっていないことから師道に兵を加えることができなかった。
- 元和元年(806年)七月、建王審に遠く節度を領させ師道には検校左散騎常侍・兼御史大夫を授け権知鄆州事として淄青節度留後を任じさせた。十月、検校工部尚書・兼鄆州大都督府長史を加え平盧軍および淄青節度副大使として節度事を知らせ、管内支度営田観察処置・陸運海運押新羅渤海両蕃等使とした。正己から師道まで、鄆・曹など十二州を私有すること六十年に及んだ。人心が自分に付かないことを恐れ皆厳法をもって制御した。外に鎮する大将は皆妻子を人質に取り、もし朝廷への帰服を謀ることが漏れれば一族を老幼問わず皆殺しにした。これにより衆を脅し父子兄弟で権力を伝えることができたのであった。元和五年(810年)七月、検校尚書右僕射となった。
洛陽での謀反計画
- 元和十年、王師が蔡州を討伐すると師道は賊に河陰倉を焼かせ建陵橋を断たせた。初め師道は河南府に留邸(駐在所)を置き、兵や間諜が雑じって往来していたが吏は敢えて糾さなかった。吳元濟が北に汝州・鄭州を犯し郊畿にしきりに警報が発せられると防禦の兵はことごとく伊闕に配され、師道は密かに数十百人の兵をその邸に潜入させ、宮闕を焼き殺戮と掠奪を行うことを謀った。牛を屠り衆を饗応した翌日に決行しようとしたところ、小将楊進・李再興が留守呂元膺に変事を告げた。
- 元膺は伊闕の兵を呼び戻して包囲したが半日も敢えて攻め込めなかった。防禦判官王茂元が一人を殺してからようやく進み、垣を壊して入る者もあった。賊衆は突出して人を殺し包囲した兵は驚き逃げ散り、賊は街中で隊列を組み妻子を袋の中に入れ甲冑をつけた者を殿にして進み、防禦の兵は敢えて追わなかった。賊は長夏門を出て郊外の別荘を掠奪しながら東に伊水を渡り嵩山に入った。元膺は境上の兵に重賞を懸けさせこれを捕らえさせた。
- 数ヶ月後、山棚(山地の民)の者が市場で鹿を売っていたところ賊がこれを奪った。山棚の者は逃げてその仲間を集め、官軍を導いて谷中を包囲させ、これをことごとく捕らえた。徹底的に調べると首魁は中岳寺の僧圓静と判明した。八十余歳で、かつて史思明の将であり体格逞しく人並み外れていた。初め捕らえた際、力の強い者に槌を振るわせたが脛を折ることができなかった。圓静は「小僧め、人の足も折れないくせに、健児と自称するのか」と罵り、自ら足を差し出して折らせた。刑に臨んで「私の計画を誤らせた、洛陽の街を血で染められなかったとは」と言った。死者は数十人に及んだ。
陰謀の摘発
- 留守御将二人・都亭駅卒五人・甘水駅卒三人は皆密かに師道の役職を受けその耳目となっていたが、謀の始まりから失敗まで誰も気づかなかった。初め師道は伊闕・陸渾の間に多くの田地を買い、合わせて十か所に及んだ。これは山に籠って生活する者たちの衣食を賄うためであった。訾嘉珍・門察という者が密かにこれを配分し圓静に属させ、師道の銭千万で嵩山の仏光寺を偽って修築させ、嘉珍が事を起こす時に山中で火を挙げ二県の山棚の人々を集めて乱を起こす計画であった。
- 徹底的に調べると嘉珍・門察は武元衡を殺害した賊であることが判明し、元膺はこの経緯を詳しく奏上した。吳元濟が誅されると師道は恐れ、上表して朝旨に従うことを願い、三州の割譲と長子を入侍宿衛に遣わすことを申し出て、詔でこれが許された。
師道の失策と討伐
- 師道は見識が浅く、政事はすべて侍女たちに決められていた。侍女には蒲大姉・袁七娘と呼ばれる者がいて実質的な参謀であり「先の司徒(正己)以来この十二州を有してきたのに、なぜ一朝にして何の苦労もなく割譲するのですか。今、境内には数十万の兵士がいます。三州を献上せず、せいぜい兵を発して攻められるだけです、力戦すればよいでしょう。戦って勝てなければそのとき割地を議しても遅くはありません」と言った。師道はこれに従い割譲を取りやめ、軍情が一致しないことを表上した。詔で諸軍に討伐させることとなった。
- 元和十年十二月、武寧軍節度使李愿は将王智興を遣わし師道の軍九千を撃破し首級二千余を斬り牛馬四千を得て平陰に至った。十一年十一月、師道に司空を加えられ、給事中柳公綽を宣慰に遣わしその出方を観察させ寛容な処置を望んだ。しかし師道は表向き恭順を言葉にするだけで悪をやめなかった。十三年七月、滄州節度使鄭権は淄青の賊を斉州福城県で破り首級五百余を斬った。十月、徐州節度使李愬・兵馬使李祐は兗州魚台県で賊三千余を破った。
- 魏博節度使田弘正は本軍を率いて陽劉から渡河し鄆州まで九十里の地に陣営を布き、二度戦って賊三万余を破り三千を生け捕り器械を数えきれないほど得た。陳許節度使李光顔は濮陽県界で賊を破り鬥門城・杜荘柵を収めた。田弘正はさらに旧東阿県界で賊五万を破った。諸軍は四方から合流しあいつぐ城柵を落とした。
劉悟の裏切りと李師道の最期
- 師道は劉悟に兵を率いさせ魏博軍に当たらせたが敗れ、しばしば急ぎ戦うよう命じた。軍がまだ進まないうちに奴僕を遣わし悟を呼んで事を協議しようとした。悟は自分が殺されるために呼ばれたことを察し、病と称して出ず将吏を召して謀り「魏博の兵は強く、勝ちに乗じて出撃すれば必ず我が軍を破るだろう。出撃しなくても死あるのみだ。今、天子が誅そうとしているのは司空(師道)一人だけだ。悟と皆は追い立てられ死地に赴かされている、これでどうして禍を転じて福となし、来た使者を殺して兵を鄆州へ向かわせ、大功を立てて富貴を求めないでいられようか」と述べた。
- 皆「よかろう」と答え、使者を迎え斬った。師道が発した追牒(追撃命令の文書)を持って兵を鄆州へ向かわせた。夜になり門に至ると師道の追牒を示すと入城が許された。兵士たちは続々と進み球場に至ると内城を包囲し火攻めを行い、師道を捕えてその首を斬り魏博の軍に送った。元和十四年(819年)二月のことである。この月、弘正はこれを京師に献上し、天子は左右の軍に受馘(捕虜の首を受ける)の儀を行わせ先に太廟と社に献じてから憲宗は興安門に出御してこれを受け取り、百官は祝賀した。
降伏兵の赦免
- 初め東軍の諸道行営節度は逆賊将夏侯澄ら合わせて四十七人を捕えたが、詔で「凶党に付き従い王師に抵抗した者は国の常刑に照らせばことごとく誅すべきである。しかし朕は彼らが久しく汚れた風俗の中に居りいずれも脅されて従った者であることを思う。まして討伐が始まってからそれほど日も経っておらず、たとえ禍を転じる計を懐いていても忠を示す機会がなかった事情は憐れむべきであり、朕は殺すに忍びない。まして三軍百姓は誰も皆我が民ではないか。詔令の頒布は師道一人に罪を止めるものである。まさに民を苦しみから救おうとしているのだから、その命を活かすことこそ、法を曲げても恩を知らしめることになろう。皆特別に釈放し、魏博および義成の行営へ送り届け、それぞれの節度に管理させ使役させよ。もし父母血族がなお賊中にいる場合、あるいは老弱病人で切に帰郷を望む者があれば、事情に応じて放免することも考慮し、できる限り全うさせよ、何を疑い留める必要があろうか」との詔が下った。
- 澄らが行営に至ると、賊はこれを密かに知り伝え聞かせ、叛徒たちは皆朝廷の恩に感じ入り、これにより劉悟はその計略を実行することができたのであった。
事後処理
- 師道の妻魏氏と幼子は掖庭に配された。堂弟の師賢・師智は春州へ配流され、甥の弘巽は雷州へ配流された。詔でその十二州を三節度に分け、馬総・薛平・王遂にそれぞれ鎮めさせた。さらに宰臣崔群に碑文を撰させその功績を記させた。
- 国家は天寶末年に安祿山が両河で乱を先導して以来、寶應元年に王師が史朝義を平定するまでの間、その将の薛嵩・李懐仙・田承嗣・李宝臣らが偽命を受け州郡を分割統治し、朝廷は兵を厭って仆固懐恩の要請に応じ官爵を加えていった。侯希逸が軍人に追放されると正己が斉・魯の地を占拠し、以後互いに結びつき婚姻を結んで職貢は入らず法令も及ばず、これが常態となった。それぞれ子を副大使に任じ、父が死ねば子が立ち三軍の要求によって決定され、あるいは大将に殺されて自ら立つ者もいた。安史の乱以後、貞元に至るまで、朝廷は多く寛容を旨とし、勝手な継承があるたびにそのまま追認したため、六十余年の間、両河は反覆常なき風俗と称された。憲宗は人を知りよく任用し乱の跡を平定し、両河は再び王土に戻ったのであった。師道の妻魏氏は元和十五年(820年)出家して尼となった。
洧――李正己の従兄
- 洧は正己の従父兄。正己は徐州刺史として用いた。正己が死に子の納が宋州を犯すと、洧はその州を挙げて帰順し御史大夫を加えられ潮陽郡王に封じられ実封二百戸を食み招諭使とされた。
- 初め洧は攝巡官崔程に表を持たせ京師へ遣わし、口頭でも宰相に「徐州は単独では賊に当たれない恐れがあります。もし徐・海・沂三州の節度都団練使を得られれば必ず功を立てられます。しかも海州・沂州もまた賊の納に占拠されており国家の州県ではありません。その刺史王渉・馬万通らとは私はもとより約束をしています。詔命があれば必ず成功が見込めます」と伝えさせた。
- 程は外部から闕に到着したばかりで宰相は一人だけと思い、まずこの言葉を張鎰に告げ、鎰は盧杞に伝えた。杞は程が先に自分に告げなかったことに怒り、これにより洧の求めは実行されなかった。杞が公を妨げ私を害することは、皆この類であった。
- 李納が兵を出して徐州を攻めると劉洽が諸将とともにこれを撃退したが賊勢はなお衰えなかった。ここで初めて洧に徐・海・沂都団練観察使が加えられ、まもなく密州も加えられた。しかし当時海州・密州はいずれも賊に占拠されており洧の命令に従わなかった。まもなく洧に検校戸部尚書が加えられた。まもなく背中に癰疽ができ、やや治まると大々的に粥や餅を用意し市中で僧に施食した。洧は肩輿に乗って自らその場に臨むと市の人々は歓呼したが、洧は驚き背中の癰疽が破れて卒した。左僕射を贈られた。
史論
- 史臣は言う。安史の乱離以後、河朔は割拠し、表向きは朝旨を尊びながら内では奸謀を蓄えていた。薛嵩の祖父は国の名将であったが、その身は賊庭に足を汚した。しかし国恩を受けてなお家法を保ち、土地を守り職を奉じ終身一心であったのは、まことに立派な人物と言うべきで、余慶を全うすることができた。
- 令狐彰は喪に服して礼に従い士子の風があり、衆を統率する権謀には将軍の業を著した。中外での善政と終始変わらぬ令名を保ち、成功を誇らず致仕を願い出た、これに比する者は少ない。逆に背いて国に帰し兵を治め民を牧し、上表して誠意を示し賢者を推挙して自らに代えた、当時よく始めを善くし終わりを善くしたと称された。建は遺訓を守る志を抱きよく令名を全うしたが、功業を最後まで保つことができなかった、惜しむべきことである。
- 田神功は忠勇でついに勲功を著した。侯希逸は荒淫で自ら領地を失った。李師道の祖父・弟・兄はいずれも青州・鄆州を盗み占拠し、有利と見れば密かに凶逆を図り、勢いを失えば偽って朝旨を奉じ、向背を思うままにすること数十年に及んだ。
- ある者が問うた、師古以前の三代の帥は滅ぼされなかったのに、師道が継いで数年で滅んだのはなぜか、と。答えて言う、納と師古は自ら奸謀を巡らせ自ら軍事に臨んでいた。朝廷が盧杞を任用し私をもって公を妨げ懐光を忠から逆へと変えさせたことにより、李納父子はそれゆえかろうじて命脈を保てたのだ。憲宗が朝政を執り裴度が宰相となると君臣の道が合致し内外の情が通じるようになった。師道は外には奴僕を任用し内には侍女の言葉を聞き、軍民は離反し一族は滅亡した、これも当然のことではないか。数年もの間、命脈を保てただけでもすでに多いというべきで、何を疑うことがあろうか。
賛
- 賛して言う。田神功は勇をもって功を立て、令狐彰は死してなお節を失わなかった。薛平は家世を振るい世に名を顕したが、李師道は奴婢に事を任せて滅亡した。