経歴
- 庾準は常州の人。父の光先は天寶中に文部侍郎であった。準は門蔭により仕官し、宰相王縉に取り入り、縉はしきりに引き立てて職方郎中・知制誥に至らせ、中書舎人に遷らせた。準はもとより文学に乏しく柔媚な態度で身を進め、儒者の流れではなかったため大いに時の評論に軽んじられた。まもなく御史中丞に改まり尚書左丞に遷った。縉が罪を得ると出て汝州刺史となった。
- 再び召されて司農卿となり、楊炎と厚く親しくなった。炎が劉晏を殺そうとした際、準が晏と不仲であることを知り荊南節度使に用いた。準は晏が朱泚に書を送った証拠を得たと上言し、しかも怨望の言葉があり、さらに州兵を召集して詔命に抗しようとしていると訴えた。そこで先に晏を殺し、後から自尽を賜る詔を下したため、天下はこれを冤罪とした。炎は晏を殺した功で準を尚書左丞に召した。建中三年(782年)六月丁巳、卒した。時に五十一歳。工部尚書を贈られた。
史論
- 史臣は言う。孔子は「富と貴きとは人の欲するところなれど、その道をもって得るのでなければ処らず」と言った。この道に反する者は小人である。元載は李輔国に諂って身を立て、時の権勢を弄んで地位を固めたが、衆怒は犯しがたく悪をやめないまま、家は滅び妻子にまで誅が及び、身は死して祖先にまで禍が及んだ。王縉は奸邪に付和雷同し、ついに転覆に至った。楊炎は崔祐甫の定めた規律を崩し、段秀実の直言に怒り、恩に報い仇を討つことに私情を注いで公を害した。この三人はいずれも文章に優れていたが、徳行とはかけ離れていた。「その徳を常とせず、あるいは辱めを承く」とは『易』の教えである。富貴をその道によらず得るのは、まさに小人の所業である。庾準の巧言令色を見るに、王縉の復権に遭い楊炎の意に従い、劉晏の冤罪を曲げて成した。悪を積みながら天寿を全うできたのは、その報いは後の禍として子孫に残るのではないか。
賛
- 賛して言う。元載・王縉・楊炎・庾準は、互いに付和雷同した。『左伝』に言う、「貪欲な人は同類を破滅させる」と。