出自と失脚
- 黎幹は戎州の人。初め星緯数術に優れたことで進出し翰林待詔を務め、累進して諫議大夫に至った。まもなく京兆尹に遷り厳格な政を敷いたため人々はこれを便とする一方、機に乗じて上位者に取り入り時流に従って態度を変えた。大歴二年(767年)、刑部侍郎に改まった。魚朝恩が誅されると交流の罪に連座して桂州刺史・本管観察使として出た。江陵に至った頃、母の喪に服した。
- 久しくして京兆尹の欠員があり人々はしきりに幹を思った。大歴八年(773年)、再び京兆尹・兼御史大夫を拝命した。幹は自らの得意な立場に驕り治政の意欲を失い、貪欲さと横暴さをますます深め財と色に耽った。大歴十三年(778年)、兵部侍郎に転じた。
- 性は陰険で邪道に頼り中官と結んで主君の恩寵を求め、代宗はこれに大いに惑わされていた。当時中官劉忠翼の寵愛はまさに盛んで、幹はこれと厚く結び姦計を通じ合っていた。徳宗が即位した当初、幹はなおも詭道で登用を求め、密かに輿に乗って忠翼の邸を訪ねた。
- 事が発覚すると詔で「兵部侍郎黎幹は害をなすこと豺狼のようであり、特進劉忠翼は義を隠し賊を匿った。ともに除名の上長流とせよ」とされた。護送される途中、市中の子供数千人が騒ぎ立ち瓦礫を懐に投げつけたが捕吏はこれを止められなかった。二人はともに藍田駅で死を賜った。
附伝・劉忠翼
- 忠翼は宦官で、もとの名は清潭。董秀とともに代宗の寵愛を受けていた。天子の命令を口にし勢いは日月をも動かすほどで、貪欲に賄賂を受け財産は巨万に達した。大歴中、徳宗がまだ東宮にあった頃、幹と清潭はかつて動揺させようとする奸計を企てたことがあり、この時に至って以前の罪を積み重ねて誅された。