出自と初期の経歴
- 王縉、字は夏卿、河中の人。若くして学を好み、兄の維とともに早くから文才で知られた。縉は草沢科および文辞清麗科に相次いで及第し、累進して侍御史・武部員外を授けられた。祿山の乱では太原少尹に選ばれ李光弼とともに太原を守り、功績と謀略はいずれも人々に第一と推された。憲部侍郎を加えられ本官も兼ねた。当時兄の維は賊の手に落ち偽官を受けていた。賊が平定されると維は吏に処罰を議されたが、縉は自らの官をもって維の罪を贖うことを願い出て特別に減刑された。
拝相と地方統治
- 縉はまもなく召されて国子祭酒を拝命し鳳翔尹・秦隴州防禦使に改まり、工部侍郎・左散騎常侍を歴任した。『玄宗哀冊文』を撰し、当時巧みな文と称された。兵部侍郎に改まった。史朝義が平定された後も河朔がまだ安定していなかったため、詔で縉に本官のまま河北宣慰を担わせ、使命は意にかなった。
- 廣德二年(764年)、黄門侍郎・同平章事・太微宮使・弘文崇賢館大学士を拝命した。その年、河南副元帥李光弼が徐州で薨じると、縉は侍中・持節都統河南・淮西・山南東道諸節度行営事とされた。縉は侍中を懇ろに辞退し、これに従われ上柱国を加えられ東都留守を兼ねた。一年余りで河南副元帥に遷り、軍資銭四十万貫を減らして東都の殿宇を修築することを願い出た。
- 大歴三年(768年)、幽州節度使李懐仙が死ぬと、縉は幽州・盧龍節度を領した。縉は鎮に赴いた後戻り、政を燕将朱希彩に委ねた。また河東節度辛雲京が卒すると太原尹・北都留守・河東節度営田観察等使を兼ねた。縉は再び河南副元帥・東都留守を辞退し、これに従われた。
- 太原の旧将王無縦・張奉璋らは功を恃み、また縉が儒者であることから軽んじ、事あるごとに約束を破ることが多かった。縉はある朝これらを皆召して斬り、将校は震え上がった。
元載との結託と晩年
- 二年後、河東を罷免され朝廷に戻り門下侍郎・中書門下平章事を授けられた。当時元載が実権を握っており、縉は謙って従い逆らわなかったが、才を恃み老齢であることを盾に傲慢無礼な振る舞いも多かった。載が不快に思うことは、縉は内心では載の意に迎合していたが、言葉遣いは無遠慮で憚るところがなかった。
- 当時京兆尹の黎幹という者は戎州の人で、しばしば政事を論じたため載はこれを大いに嫌ったが力ずくで排除できなかった。幹がかつて縉に事を報告した際、縉は「尹(幹)は南方の田舎者だ、どうして朝廷の礼を知ろうか」と言った。その傲慢で人を侮る様子はいずれもこの類であった。
仏教への傾倒
- 縉兄弟は仏に仕え肉食を絶ち、晩年の縉は特に篤かった。杜鴻漸とともに財を惜しまず寺を建立した。妻の李氏が卒すると道政里の邸宅を寺として捨て冥福を祈り、「寶應」の額を奏請し僧三十人を得度させて住持とした。節度観察使が入朝するたびに必ず寶應寺へ誘い、諷して施財させ自らの修繕を助けさせた。
- 初め代宗は祭祀を好んだがまだそれほど仏教を重んじていなかったが、元載・杜鴻漸と縉が僧に施すことを好んだ。代宗はかつて福業と応報の事を問うたことがあり、載らはこれに乗じて奏上したため、代宗はこれより過度に仏を奉じるようになり、僧百余人を宮中に仏像とともに配し経行念誦させ、これを内道場と呼んだ。飲食は珍味を極め、出入りには宮廷の馬車を用い度支から支給された。
- 西蕃が侵攻するたびに僧たちに『仁王経』を講じさせ賊を退けようとし、たまたま賊が退けば僧に多大な賜与を与えた。胡僧の不空は官位が卿監に至り国公に封じられ禁中に出入りを許され、その勢いは公卿を凌ぎ、権を争い威を専らにし日々互いに奪い合った。京畿の肥沃な良田はことごとく寺観に帰し、官吏はこれを制することができなかった。
- 僧の徒党には贓罪や姦淫、蓄乱の罪で誅殺される者が相次いだが、代宗の信心は変わらず、天下の官吏に僧尼を鞭打つことを禁じる詔まで出した。また縉らが財を施し寺を建てその華美を極める様を見るたび、常に業報を証拠として説くのを聞き入れ、国家の慶運が長く続くのはすべて福報のおかげであり業力はすでに定まっている、多少の患難があっても取るに足らないと考えた。だから祿山や思明の毒乱が盛んであった時期にも彼らには子の禍があり、仆固懐恩は乱を起こそうとして死に、西戎が闕を犯しても討たずして退いたのだ、これらはすべて人事の力ではないと考えるようになり、帝の信心はますます深まった。公卿大臣もまた業報を口実に人事を怠るようになり、大歴年間の刑政が日に日に衰退したのはこれに由来する。
金閣寺と盂蘭盆会
- 五台山には金閣寺があり銅で瓦を鋳造しその上に金を塗り、山谷を照らし費用は巨億万に及んだ。縉が宰相であったとき中書の符牒を与え、台山の僧数十人を分けて郡県を巡らせ人を集めて説法させ財貨を集めさせた。代宗は七月十五日に内道場で盂蘭盆を作らせ、金翠で飾ってその費用は百万に及んだ。
- また高祖以下七聖の神座を設け幡や節、龍傘、衣裳の制を備え、各々の尊号を幡に書いて印とし、内から担ぎ出して寺観に並べた。この日、儀仗が並べられ百官は光順門で列を成して待ち、幡花・鼓舞が道中に迎え呼ばれた。これが毎年恒例となり、識者はこの非典礼を嗤ったが、教えを損なう源はここに始まったのである。
妻李氏と晩年
- 李氏は初め左丞韋済の妻であったが、済が卒すると縉のもとに走った。縉はこれを寵愛し妻と偽称したが実は妾であった。また弟妹や女尼らに広く財貨を求めさせ、その貪欲な様は商人のようであった。
- 元載が罪を得ると縉も連座して括州刺史に貶され、処州刺史に移った。大歴十四年(779年)、太子賓客を授けられ東都に留司した。建中二年(781年)十二月に卒した。八十二歳であった。