舊唐書卷一百一 列傳第五十一 韋湊

剛直な吏才

  • 韋湊は京兆万年の人。曾祖父の瓚は隋の尚書右丞、祖父の叔諧は蒲州刺史、父の玄は桂州都督府長史であった。湊は永淳二年、婺州参軍として出仕し、揚府法曹参軍に累転した。州の元仁寿令孟神爽が横暴で法をたびたび犯し貴戚と通じていたため歴代の官吏が手を出せずにいたが、湊は長史張潜に事あるごとに処置すべきと進言、神爽が事に連座した際、湊は容赦せず取り調べ、神爽が密旨があると偽ったが虚偽と判明したため杖殺した、遠近の人々はこれに服した。景龍中、将作少匠・司農少卿を歴任、公事で宗楚客に逆らい貝州刺史に出された。

節愍太子の諡号への諫言

  • 睿宗即位後、鴻臚少卿を拝し銀青光禄大夫を加えられた。景雲二年、太府少卿に転じ通事舎人を兼ねた。節愍太子が改葬され諡号を加える議が進み、李多祚らの罪も雪がれ官爵を戻しさらに追贈が検討される中、湊は上書した。
  • 上書の要旨は、賞罰と諡号は至公の大義であり私情を挟むべきでないとした上で、節愍太子が禁軍を擁して宮中に乱入し中宗を脅かした事実を振り返り、その謀反の実態を詳細に述べた。太子が武三思誅殺に功があったとしても私欲から出た反乱であること、韋氏を廃そうとしたにせよ当時韋氏にまだ明確な逆謀がなく太子にとって母を廃す理はなかったこと、君父に非があっても臣子が廃殺してはならない道理を説き、晋の申生や漢の戻太子の故事を引きながら、節愍太子の行いはこれらの忠孝の例とは異なり「節愍」の諡号にふさわしくないと論じた。項羽の臣丁公が漢の高祖に殺された故事(私恩に流されず大義を貫くべき先例)も引いた。最後に、諡号を改めるべきこと、李多祚らの罪は「雪ぐ」のでなく「宥す」とすべきことを求めた。
  • 上書は睿宗に届き、睿宗は湊を召して「まさに卿の言う通りだが、既に事が決まった以上どう改めればよいか」と問うた。湊は「太子の行いは実に悖逆であり褒め称えるべきでない、その行いに即して諡を一字に改めるべき、李多祚らも兵で君を犯した以上罪がないとは言えず『放(赦す)』と称すべきで『雪(無実にする)』とは言うべきでない」と答え、帝はこれに同意したが、当時の執政は既に発布された制令を改めがたいとし、結局多祚らの追贈だけが停止された。

土木事業への諫言と晩年

  • 翌年春、金仙・玉真両観の造営が始まり莫大な費用が投じられた。湊は「陛下は昨夏、農事を妨げるとして両観の造営を止めたのに、今また農繁期に工事を興そうとしている、公主の財を使い国庫を出さないとはいえ、土木が始まれば高値で人を雇い、関中の農民が目先の利に走り農を捨てて雇われる、一人が耕さなければ天下に飢える者が出る」と諫めたが帝は応じなかった。さらに「陽気が満ち万物が生育する時期に土木を興せば昆虫を多く殺すことになり、仁聖の本旨に反する」と重ねて諫めたところ、睿宗はこれを容れて外に議論させた。中書令崔湜・侍中岑羲が湊に「あなたがこれを敢えて言うとは、大変難しいことだ」と述べると、湊は「厚禄を食む身、死をも厭わない、まして今は明時、死ぬはずがない」と答えた。まもなく陝州刺史に出、汝州刺史に転じた。開元二年夏、靖陵に碑を建てる勅が出て人夫・材料の調達が命じられた際、湊は古来園陵に碑を建てる礼はなく折しも旱魃の年で工事を興すべきでないとして上表で強く諫め、工事は中止された。まもなく岐州刺史に遷った。
  • 四年、将作大匠として入朝した。孝敬廟を義宗と改める勅が出た際、湊は上書し、祖・宗の号は功徳を天下に及ぼした帝にのみ相応しく、孝敬皇帝は東宮の位に留まり南面したことがなく、廟を別に立てて昭穆に入れないのに宗を称するのは礼に合わないと論じた。これにより太常に議させ義宗の号は停止された。
  • 湊は前後に時政の得失を論じる上書を多く行い、多くが採用された。再遷して河南尹となり彭城郡公に累封された。公事により杭州刺史に左遷、汾州刺史に転じた。十年、太原尹・兼節度支度営田大使を拝したが、その年官にあって卒去、享年六十五。幽州都督を追贈され諡は文。子の見素には別に伝がある。湊の従子は虚心。

韋湊の従子 虚心

  • 虚心の父の維は若くして儒学を学び文史に広く通じ進士に及第した。大理丞から戸部郎中に至り裁断に長け、当時員外郎宋之問が詩に長じていたため「戸部に二妙あり」と称された。左庶子で没した。
  • 虚心は孝廉に挙げられ官は厳整、大理丞・侍御史に至った。神龍年間、大獄を審理した際、僕射竇懐貞・侍中劉幽求が寛大な処置を望んだが、虚心は法令を堅く守り志を曲げなかった。景龍中、西域の羌胡が背反し捕らえられた際、悉く誅殺する勅が出たが、虚心は主謀者だけを罰するよう奏し千余人が助けられた。虚心は孝行に篤く父の喪では礼を超えるほど悲嘆し鬢髪が真っ白になり、朝廷はこれを深く称賛した。のち御史中丞・左右丞・兵部侍郎・荊揚潞の長史兼採訪使を歴任、赴任地では官吏が粛正され威令が行き渡り中外の規範とされた。戸部尚書・東京留守を歴任し享年六十七で卒去した。

韋虚心の末弟 虚舟

  • 末弟の虚舟も孝廉に挙げられ、御史から戸部・司勲・左司の郎中を歴任、荊州長史、洪州・魏州の刺史兼採訪使を務め多くの善政を残した。刑部侍郎として入朝し大理卿で終えた。韋家は家に礼則があり父子兄弟が相次いで郎署を務めたため「郎官家」と称された。