「皁雕」と呼ばれた法官と『応正論』
- 王志愔は博州聊城の人。若くして進士に及第。神龍年間、左台御史に累除され朝散大夫を加えられた。執法は剛正で百僚に畏憚され、人々は彼を「皁雕(黒鷲)」と呼んだ、これは人吏を見る目つきが雕鶚が燕雀を見るようであったためという。まもなく大理正に遷り「法令は人の堤防であり、堤防が立たなければ人は禁を守らない、大理の官僚には法を奉じず罪人を寛恕とし規則遵守を苛刻とみなす者が多い、私が滥りに刑典を執れば衆の謗りを招くことを恐れる」と上奏し、自ら著した『応正論』を表して自らの志を示した。
- 『応正論』は、『易』萃卦の「衆を聚めるに正をもってする」「引かれて吉、咎なし」という語を引き、正しい者は独り異にすることで危うくなるが、上から引かれれば吉となるという道理を、咎繇・季孫行父・魏絳・臧文仲らの故事を引きながら論じ、法を執る者は寛恕を偽の徳とすべきでなく、私情で刑の軽重を左右すべきでないと説く。任延が漢帝に対し「忠臣は私せず私する臣は忠ならず」と応じた故事や、晏子が景公に「和と同は異なる」と説いた故事を引き、法は君主の旨に阿らず一定であるべきことを述べ、後魏の廷尉游肇が帝の私命に従わなかった故事、漢の武帝が甥の罪を赦さなかった故事、隋の文帝が愛子秦王俊の過ちを許さなかった故事を挙げ、帝王自身も法を曲げないのに法官が私情で法を変えてよいはずがないと結論する。最後に、君子は出処いずれの道でも直道を貫くべきとし、権勢に媚びて禄を守る生き方を深く恥じるとして論を終えている。
- 中宗はこれを見て嘉し、駕部郎中に遷った。
- 景雲元年、左御史中丞に累転、まもなく大理少卿に遷った。二年、漢の刺史監郡の制に倣い天下の要衝の大州に都督二十人を置く制が定められ、志愔は齊州都督に任じられたが結局実施されなかった。改めて斉州刺史・充河南道按察使を授かった。まもなく汴州刺史に遷り、河南道按察使も引き続き兼ねた。太極元年、本官のまま御史中丞・内供奉を兼ね実封百戸を賜った。まもなく銀青光禄大夫を加えられ戸部侍郎を拝し、魏州刺史に出、揚州大都督府長史に転じ、いずれも本道按察使を兼ねた。赴任地ではいずれも令行禁止で奸猾が姿を消し境内は粛然となった。のち刑部尚書に召された。
- 開元九年、玄宗の東都行幸に際し京師留守を命じられた。十年、京兆の権梁山という者が襄王の子を偽称し「光帝」を自称、その党および左右屯営の押官と共謀して反乱を起こした。夜半、左屯営の兵百余人を率いて景風・長楽等の門を破り宮城に入り志愔を殺そうとしたが、志愔は塀を越えて逃れた。まもなく屯営の兵は潰散し、逆に梁山ら五人を殺してその首を東都に送った。志愔はこの事件で驚愕のあまり病を得て卒去した。