忠義の対策と厳正な断獄
- 鄭惟忠は宋州宋城の人。儀鳳中、進士に及第、井陘尉を授かり湯陰尉に転じた。天授中、挙に応じて召見された際、則天は殿前で諸挙人に「何が忠か」と問い、他の者たちの答えは意に適わなかったが、惟忠は「忠とは外に君の美を宣揚し内に君の悪を匡すこと」と答え、則天は「よろしい」と評した。左司禦率府冑曹参軍を授かり水部員外郎に累進した。則天が長安に行幸した際、惟忠が待制で謁見すると則天は「朕は卿を覚えている、以前東都で『忠臣は外に君の美を宣揚し内に君の悪を匡す』と述べたことを今も忘れていない」と述べ、朝散大夫を加えられ鳳閣舎人に再遷した。
- 中宗即位後、深く敬重され黄門侍郎に抜擢された。嶺南の首領の家に武器を蓄えることを禁ずる議が出た際、惟忠は「政は習俗を無理に改めるべきでない、『呉都賦』に『家々に鶴膝、戸々に犀渠』とある、これを禁じれば動揺を招く」と述べ、議は取り止めとなった。まもなく大理卿を守った。節愍太子が将軍李多祚らと共に武三思誅殺の兵を挙げ事変が失敗して誅された際、それに巻き込まれた門番らも配流されることとなったが、韋后の党与が皆殺しにするよう密奏した。中宗が改めて審理を命じた際、惟忠は「大獄が既に決した後にさらに審理を変えれば人心はますます動揺する、疑いを持つ者が安んじられなくなる」と奏し、百司に議させた結果、旧断が維持され多くの者が救われた。まもなく御史大夫を拝し、持節で河北道への賑給を行い牧宰の黜陟も担った。復命の奏上が旨に適い銀青光禄大夫を加えられ滎陽県男に封じられた。開元初、礼部尚書となり太子賓客に転じた。開元十年卒去、太子少保を追贈された。