清勤の吏才と宰相拝命
- 牛仙客は涇州鶉觚の人。初め県の小吏となり県令傅文静に重んじられた。文静はのち隴右営田使となり仙客をその事業に参与させ、軍功により洮州司馬に累転した。開元初、王君㚟が河西節度使となり仙客を判官として深く信任した。当時、判官宋貞も共に腹心の任にあったが、君㚟の死後、宋貞は回紇に殺され、仙客は従わなかったため難を免れた。まもなく蕭嵩が君㚟に代わり河西節度となり軍政を仙客に委ねた。仙客は清廉勤勉で怠らず上下に誠実に接した。嵩が知政事となると度々仙客を推薦し、太仆少卿・判涼州別駕事・知節度留後事に遷り、ついに嵩に代わり河西節度使・判涼州事となった。太仆卿・殿中監を歴任しつつ軍使は元のままであった。
- 開元二十四年秋、信安王褘に代わり朔方行軍大総管となり、右散騎常侍崔希逸が仙客に代わり河西節度事を知った。仙客は河西節度時代に費用を節約して巨万を蓄えており、希逸がこれを奏上したため玄宗は刑部員外郎張利貞に急使で確認させたところ、仙客の蓄えた倉庫は満ち器械も精鋭であることが判明した。玄宗は大いに喜び仙客を尚書にしようとしたが、中書令張九齢がこれに反対し、代わりに実封二百戸を加えられた。その年十一月、九齢らが知政事を罷免され、仙客は工部尚書・同中書門下三品となり門下省の事も知った。監察御史周子諒が御史大夫李適之に「牛仙客は無才なのに濫りに宰相の位に登った、大夫は国の重臣、座視してよいのか」と密かに述べたところ、適之がこれを奏上、玄宗は激怒し廷詰、子諒は答えに窮し朝堂で杖罰の上瀼州に流罪となり、藍田に至って死んだ。
保身の宰相と晩年
- 仙客は宰相となると独り己を保つばかりで唯々諾々であった。下賜品はすべて封をしたまま開けず、百司から相談があっても「令式に従うのがよい」と述べるのみで自ら裁決することを避けた。翌年、豳国公に特封され、父の意に礼部尚書、祖父の会に涇州刺史が追贈された。まもなく侍中・兼兵部尚書に進んだ。天宝年間、官名改定で左相を拝し尚書はそのままであった。その年七月卒去、享年六十八。宮中から絹千匹・布五百端が出され中使が邸に送って弔い、尚書左丞を追贈され諡は貞簡。
- 以前、仙客が朔方軍使であった頃、姚崇の孫の姚閎を判官としていた。仙客が知政事となると閎は侍御史に累進し、自ら鬼道に通じ吉凶を予知できると称し、仙客はこれを深く信じた。病が重くなると閎は仙客のために祈祷を行うと称してその門下に入り込み、仙客に遺表を書かせ叔父の尚書右丞姚弈と兵部侍郎盧奐を後任に推薦させようとし、閎自ら起草した。仙客は既に危篤で署名もままならなかったが、妻が弔問に来た中使を通じてこの表を上奏した。玄宗はこれを見て怒り、弈を永陽太守、盧奐を臨淄太守に左遷し、閎には死を賜った。