舊唐書卷一百〇八 列傳第五十八 杜鴻漸

出自と朔方での献策

  • 杜鴻漸は故相杜暹の族子。祖父の慎行は益州長史。父の鵬挙は官が王友に至った。鴻漸は聡敏で学を好み進士に及第、王府参軍として出仕した。天宝末、大理司直・朔方留後・支度副使に累進した。
  • 粛宗が北へ行幸し平涼に至った際、行き先が定まらずにいた。鴻漸は六城水運使魏少遊・節度判官崔漪・支度判官盧簡金・関内塩池判官李涵と共に「今胡羯(安禄山)が常道を乱し二京が陥落し、主上は南の巴蜀へ、皇太子は平涼で兵を治めておられる、しかし平涼は分散した地であり兵を集めるには適さない、勝利を制するには朔方以外にない、殿下を奉じれば旬日のうちに西の河・隴を収め、回紇はまさに強勢で我が国と友好にあり、北方の精鋭を招き南で諸城を集めれば、大兵を一挙に発して二京を回復できる、社稷の恥を雪ぎ上は明主に報い下は民を安んじる、これこそ臣子の心得であり国家の大計である」と謀った。鴻漸はその日のうちに兵馬招集の情勢を記した箋を起草し、軍資・器械・倉儲・庫物の数を記録し李涵に平涼へ届けさせ、粛宗は大いに喜んだ。
  • 鴻漸は粛宗が平涼を発つと知ると北界の白草頓で出迎え、諸使と兵士を労い「朔方は天下の精兵、霊州は用兵の要地です、今回紇が和を請い吐蕃も内附し、天下の郡邑は皆固く守って詔命を待っています、賊に占拠された地もまもなく回復されるでしょう、殿下が軍を整え一挙に進めば逆胡を滅ぼすのは難しくありません」と進言、粛宗はこれを是とした。

粛宗擁立と晩年

  • 霊武に至ると、鴻漸は裴冕らと共に皇帝への即位を勧め、内外の期待に応えるため五度上表し、粛宗はついにこれに従った。鴻漸は帝王の儀礼や君臣朝見の礼に通じていたため旧儀を採集し即位の儀を整えた。城南に壇壝を設け前日に儀注を起草して奏上したが、粛宗は「聖君(玄宗)は遠くにあり寇逆もまだ平定されていない、壇場は取りやめるべき」と述べ、他はその奏の通りとした。粛宗即位後、兵部郎中・知中書舎人事を授かり、まもなく武部侍郎に転じた。至徳二年、御史大夫を兼ね河西節度使・涼州都督となった。両京平定後、荊州大都督府長史・荊南節度使に遷った。
  • 襄州の大将康楚元・張嘉延が管轄兵を盗んで襄州城に拠って叛くと刺史王政は逃げた。嘉延は南下して荊州を襲い、鴻漸はこれを聞き城を捨てて逃げた。澧州・朗州・硤州・帰州などの諸州は鴻漸の逃亡を聞き皆恐れ山谷に身を隠した。一年余り後、尚書右丞・吏部侍郎・太常卿に召され礼儀使を充てられた。二聖(玄宗・粛宗)が崩じると鴻漸は儀制を監護し、山陵の儀が終わると光禄大夫を加えられ衛国公に封じられた。広徳二年、代宗が郊廟を祭ろうとした際、鴻漸は兵部侍郎・同中書門下平章事を拝し、まもなく中書侍郎に転じた。

蜀の乱と晩年

  • 永泰元年十月、剣南西川兵馬使崔旰が節度使郭英乂を殺し成都に拠り自ら留後を称した。邛州衙将柏貞節・瀘州衙将楊子琳・剣州衙将李昌巙らが兵を挙げ旰を討ち西蜀は大いに乱れた。翌年二月、鴻漸は宰相として山南・剣南副元帥・剣南西川節度使を兼ね蜀の乱を平定するよう命じられた。鴻漸は元来遠大な志に欠け気概も弱く、仏教を篤く信仰し軍事を好まなかった。成都に至ると旰の武勇を恐れ罪を問わず、剣南の節制を旰に譲る上表を行った。折しも西戎が辺境を侵し関中も多事であったため、鴻漸は孤軍で危地に陥り兵威も振るわず、代宗はやむを得ずこれに従った。旰は剣南西川行軍司馬、柏貞節は邛州刺史、楊子琳は瀘州刺史とされそれぞれ兵を解いた。鴻漸はまもなく入朝を願い出、崔旰を西川兵馬留後とする上表も行った。大暦二年、詔で旰は成都尹・剣南西川節度使とされ、鴻漸は京に召還された。鴻漸は旰を伴って入朝し、代宗はこれを嘉した。
  • のち知政事となり門下侍郎に転じ、山南副元帥は辞退した。三年八月、王縉に代わり東都留守となり河南・淮西・山南東道副元帥を充て平章事はそのままとした。病により致仕を願い出て許されたが、結局赴任しなかった。四年十一月卒去、太尉を追贈され諡は文憲。朝を三日停め物五百疋・粟五百石を賜った。
  • 鴻漸は晩年、静かに退隠することを楽しみ、私邸は長興里にあり館宇は華美で賓客を招いて宴を催した。悠然と「常に禅理を追い求めたい、いかにして化源を汲めようか」との詩を賦し、朝士の多くがこれに唱和した。致仕後に病を得ると僧に頭髪を剃らせ、卒去に際しては子に胡法(仏教式)で塔葬とし土を盛らず樹も植えないよう遺言し僧侶に模そうとしたが、これは物議を招き嘲笑された。

史論

  • 史臣曰く: 禄山の狂悖な様子は既に明らかで、玄宗の寵任には疑いようがなかった。見素は国の危機を知り廟算を陳べ直言極諫すべきであったのに、君主に従うのみでただ正しく危難に臨み、人にも咎められることなく、生死を共にしながら善始善終を全うできた者は稀である。時論は見素が国忠に取り入り大政を正す言葉がなかったと評した。しかし国忠は外戚を恃み重権を弄び林甫の奸豪をも退けてその大位を奪った、見素のような孤高で正しい人物がどうしてこれに取り入ることを許されようか。禍の芽は既に育ち政柄は久しく乱れていた、見素が入相してからの数年、言葉が容れられず難が起きたのであれば、たとえ周公・孔子の才があってもこれを匡救できただろうか。諤は才弁があり顗は倹約であった、まさに積善の慶びに適う。円は文を守る士であって外敵を防ぐ才ではなかった。渙は才と行いを兼ね備え時の巡り合わせに恵まれ、言葉を発すれば主の意にかない急速に栄達を得たが、官にあっては度々吏に欺かれ最終的には流罪に至った、いわゆる道を共にできても権を共にはできない者であった。縦は国に忠、官に能、家に孝と三つを兼ね備えた、これに続く者はどれほどいるだろうか。鴻漸には社稷を守った功があったが城を守る器ではなかった、当時崔旰を任じたことを非とする声もあったが、それは違うだろう。旰は南は貞節を防ぎ北は献誠を破り、懐柔すべきであって力で制すべきではなかった、最終的に帰順させたのはむしろ優れた謀だったのではないか、もし討伐していれば大賊となっていただろう。しかし仏を信じて福を僥倖に求め、朋党の勢いに取り入ったことは君子の道ではない。

  • 贊にいう: 玄宗が徳を失い、安禄山が反逆を恣にした。韋見素は節を尽くし、諸公は力を合わせた。