舊唐書卷一百 列傳第五十 畢構

清廉な地方統治

  • 畢構は河南偃師の人。父の憬は則天の時に司衛少卿。構は若くして進士に及第、神龍初、中書舎人に累進した。敬暉らが武氏諸王の降削を奏請した際、構がその表を読み上げる番に当たり、声調朗々として文句の分析も明快で聴く者は皆理解できたため、武三思に憎まれ潤州刺史に出された。益州大都督府長史に累除。景雲初、左御史大夫に召され陝州刺史に転じ、銀青光禄大夫を加えられ魏県男に封じられた。まもなく益州大都督府長史・兼劍南道按察使に復した。歴任した州府はいずれも評判が良く、蜀では特に旧弊を改め清厳な政と称された。
  • 睿宗はこれを聞き璽書で「先帝の頃は皇猷が穆やかであったが、咸亨・垂拱以後は淳風が次第に廃れ、征賦・調役が繁多となり、官の選抜が濫れ、清廉な者が絶え貪残な者ばかり残る有様であった。卿は孤高清潔で古人の風があり、蜀に臨んでからは弊習が一変した。諸使の中でも卿は最も優れている」と労い、袍帯・衣一副を賜った。
  • まもなく戸部尚書を拝し吏部尚書に転じ、共に益州大都督府長史を遥領した。玄宗即位後、累進して河南尹、戸部尚書に遷った。開元四年、病を得て玄宗は自ら薬方を書いて賜った。当時、戸部尚書は「凶官」(縁起が悪い官)と噂されていたため、病が癒えることを願い太子詹事に改めさせたが、まもなく卒去、黄門監を追贈され諡は景。
  • 構は継母を早くに失った際、幼い二人の妹を自ら養育し立派に成人させた。構の没後、二人の妹は長く悲嘆に暮れ、養育の恩により三年の喪服を着た。弟の栩も深く哀悼し、当時共に称賛された。栩は官が荊州司馬に至った。