辺境経営
- 解琬は魏州元城の人。若くして幽素挙に応じ新政尉を拝し、成都丞に累転した。奏事が旨に適い監察御史に抜擢されたが母の喪で職を離れた。則天は琬が辺事に精通しているとして起復させ西域の夷虜安撫に赴かせようとしたが、琬は上疏して固辞した。則天はこれを嘉し、喪明けの後に赴任するよう命じた。
- 聖歴初、侍御史に遷り烏質勒及び十姓部落の安撫使に任じられ蕃人を喜ばせ、功により御史中丞・兼北庭都護・持節西域安撫使に抜擢された。琬は郭元振と同僚で親しかったため宗楚客に讒言され滄州刺史に左遷されたが、大局を重んじる政で人心を得た。景龍中、右台御史大夫・兼持節朔方行軍大総管に遷った。琬は前後二十余年にわたり軍にあり農耕と練兵に努め辺境を安んじた。
- 景雲二年、再び朔方軍大総管となり、随軍要籍官の河陽丞張冠宗・肥郷令韋景駿・普安令於処忠らに三城の兵募を精査させ十万人を削減した。まもなく右武衛大将軍・検校晋州刺史・済南県男を賜り、老齢を理由に致仕を願い出て、表を提出した後、返答を待たずに去った。玄宗は金紫光禄大夫を加え致仕を許し、俸禄を品に準じて全額給付する詔を下し、さらに璽書で「卿の器局は堅正で才識は高遠、忠と貞を身をもって示した、張騫の使命や魏絳の和戎に類する働きであった、国老としての栄誉に恥じない」と労った。
- まもなく吐蕃が辺境に侵攻すると再び左散騎常侍に召され吐蕃との境界画定と十姓降戸の処置を命じられた。琬は吐蕃が密かに叛計を抱いていると見て秦州・渭州等に十万の兵を先んじて配備するよう求めた。その年冬、吐蕃は果たして侵攻したが配備した兵に撃退された。まもなく致仕を再度願い出たが許されず太子賓客に遷った。開元五年、同州刺史に出、翌年卒去、享年八十余。