玄宗との旧交
- 張暐は汝州襄城の人。祖父の徳政は武徳中に鄆州刺史。暐は景龍初、銅鞮令となった。家は元来富豪で賓客を好み狩猟を楽しみとした。臨淄王(玄宗)が潞州別駕であった頃、暐はその英姿を見抜き身を捧げて仕え日々行動を共にした。楽人趙元礼が山東から来た際、その娘が美しく歌舞に長じており、王(玄宗)はこれを寵愛し暐の邸に留め置き、廃太子瑛が生まれた。唐隆元年六月、王が内難を清め皇太子に立てられると、暐を宮門大夫に任じ諸王・姜皎・崔滌・李令問・王守一・薛伯陽と共に太子の側近として親しんだ。その年、左台侍御史に抜擢され数ヶ月で左御史台中丞に遷った。
配流と復権
- 先天元年、太子が即位し武徳殿に居した。太平公主が異謀を抱き朋党を広げていたため、暐は僕射劉幽求と共に事前の対処を求めたが、これが太平に知られ睿宗に告げられ、暐は嶺南峰州に流され幽求も嶺外に貶められた。太平が失脚すると、幽求は尚書左僕射・兼侍中に復し、暐は大理卿・鄧国公・実封三百戸を賜り、一月後には権兼雍州長史も加えられた。その年十二月、開元と改元し雍州を京兆府、長史を尹と改めた。暐は最初に京兆尹となり、宮中で宴に侍り都の政を主宰する栄誉を極めた。暐は実務にも才能があり太子詹事に遷り尚書左右丞を判じ、再び左羽林大将軍、三たび左金吾大将軍、さらに殿中監・太仆卿を歴任した。
- 二十年、高齢を理由に特進を加えられた。子の履冰・季良、弟の晤も皆清要の官にあった。天宝初、暐は郷里に帰り墓参りをした際、特に錦袍・繒彩を賜られ玄宗の御製詩も添えられ、駅伝で往来し州県が供応した。暐は白髪の老人として輿の中にあり子弟の車馬が数里連なり士大夫の栄誉とされた。中使が道中で薬を追って賜った。襄城に一月余り滞在後、詔で京に戻った。五載薨去、九十余歳、開府儀同三司を追贈された。のち履冰は金吾将軍、季良は殿中監となり、共に儀仗を掲げられ時人に称賛された。暐は長寿を保ち終始を全うした。