舊唐書卷一百〇六 列傳第五十六 楊國忠

出自と急速な出世

  • 楊国忠、本名は釗、蒲州永楽の人。父の珣は国忠の顕貴により兵部尚書を追贈された。則天朝の幸臣張易之は国忠の舅にあたる。国忠は学識も節操もなく飲酒を好み賭博に耽り行儀が悪く、一族に軽蔑されていた。憤発して従軍し蜀の帥に仕え、屯田の功で昇進すべきところ、益州長史張寛がその人柄を嫌い事にかこつけて鞭打ち、結局新都尉を授かるに留まった。まもなく金吾衛兵曹参軍に遷った。太真妃(楊貴妃)は国忠の従祖妹にあたる。天宝初、太真が寵愛を受けると剣南節度使章仇兼瓊が国忠を賓佐に引き入れ、まもなく監察御史に抜擢された。軽率な進退で急速に清貴の官に昇り、朝士は指をさして嗤った。

韋堅事件での暗躍

  • 当時李林甫が皇太子に不利な計を巡らせ陰の事情を集めてこれを傾けようとしていた。侍御史楊慎矜が林甫の意を汲み、太子妃の兄韋堅が皇甫惟明と密かに太子に謁見したと誣告した際、国忠は寵を頼み大胆な言動をしたため一党に引き入れられその審理に加わった。京兆府法曹吉温は文書を弄び巧みに人を陥れ国忠の爪牙となり、堅の獄を深く追及、堅と皇太子良娣杜氏、親族の柳勣・杜昆吾らを厳しく罪に問い自らの威権を築いた。京城に別に推院(審理施設)を設け、以後連年大獄が起こり追捕・陥害で誅滅された家は数百に及んだ、いずれも国忠が発したものであった。林甫は自らの地位を固めることに深く執着しており、国忠が弾劾する内容が太子に関わる疑いのあるものであれば、林甫は明言せずとも国忠を指導し、国忠はこれに乗じて邪を行い自由に振る舞った。玄宗は高齢で好悪の感情があり、国忠はその意を探って行動を合わせた。急速に検校度支員外郎・兼侍御史・監水陸運及び司農・出納銭物・内中市買・召募剣南健児等使に遷り、称職として度支郎中に遷り、一年足らずで十五余の使職を兼ね、給事中・兼御史中丞・専判度支事に転じた。この年、貴妃の姉である虢国・韓国・秦国の三夫人が同日に爵位を拝命し、兄の銛は鴻臚卿を拝した。八載、玄宗が公卿百僚を招き左蔵庫を観覧させ、その財貨の山積ぶりを喜び国忠に金紫を賜り太府卿事を権兼させた。国忠は銭穀の任を専らにし禁中に出入りし日々寵愛を深めた。

王鉷排除と剣南遠征の失敗

  • 初め、楊慎矜が林甫の意を汲み王鉷を御史中丞に引き入れ共に大獄を起こし東宮を傾けようとしたが、玄宗の意が変わらないと見た慎矜は次第に事を避けるようになり、これにより鉷と隙が生じた。鉷は国忠に付き慎矜を誣告し、その兄弟を誅殺、これにより権勢は内外に広がり公卿は皆震え上がった。吉温は国忠に権力移行の策を献じ、国忠はこれを用いてまもなく兵部侍郎を兼ねた。京兆尹蕭炅・御史中丞宋渾は共に林甫と親しかったが、国忠は誣告して両者を左遷させ、林甫は救うことができなかった。王鉷は御史大夫・兼京兆尹となり国忠に匹敵する恩寵を受け、位望は国忠を上回っていた。国忠は鉷が権を分け合うことを妬み、邢縡の事件が発覚した際、鉷兄弟を陥れて誅し、鉷に代わり御史大夫・権京兆尹となり「国忠」の名を賜った。国忠は邢縡の獄を徹底的に追及し、林甫が鉷・銲や阿布思と通じていたという証言を引き出させ、陳希烈・哥舒翰も国忠に迎合しこれを証言、玄宗はこれ以降林甫を疎んじるようになった。
  • 南蛮の人質閤羅鳳が逃亡し捕らえられなかったため玄宗は激怒し討伐を望んだ。国忠は閬州人鮮于仲通を益州長史に推挙し精兵八万を率いて南蛮を討たせたが、瀘南で羅鳳と戦い全軍が壊滅した。国忠はこの敗戦を隠し戦功として奏上させ、仲通に自らの益州兼任を求める上表をさせた。十載、国忠は権知蜀郡都督府長史・充剣南節度副大使・知節度事となり、仲通を自らに代わり京兆尹に推薦した。国忠はさらに司馬李宓に七万の兵で再度南蛮を討たせた。宓は瀘水を渡り蛮に誘い込まれ和城で戦わずして敗れ、李宓は陣中で戦死した。国忠はこの敗戦も隠し戦勝として報告した。仲通・李宓の二度の遠征は中国の精鋭を投入したが、風土に慣れず湿地に沈み瘴癘に病み補給に窮し、死者は十のうち八九に及んだ。動員した二十万の兵は死地に捨てられ生きて帰る者はほとんどなく、人々は怨みを抱きながら誰も言い出せなかった。国忠はまもなく山南西道採訪使も兼ねた。十一載、南蛮が蜀を侵し蜀人が国忠の赴任を求め、林甫もこれを奏請した。国忠は出発前、涙を流して林甫に排斥されることを訴え、玄宗はこれを憐れみ数ヶ月で召還した。折しも林甫が没し、国忠はこれに代わり右相となり吏部尚書・集賢殿大学士・太清太微宮使・判度支・剣南節度・山南西道採訪・両京出納租庸鋳銭等使も引き続き兼ねた。

専権の実態

  • 国忠は元来性急で口達者、へつらいで宰相となり機務を決するにも躊躇しなかった。朝廷では時に袖をまくり腕を握り、公卿以下を顎で指図し、皆これを畏れた。慣例では宰相は元勲盛徳の者が就く要職であり威権を振るわず出入りも質素であったが、林甫が長く恩寵を受けていた頃から車馬が街を埋め、節度使や侍郎が用件を伝える際は皆走り避け属吏のように扱われるようになっていた。旧例では宰相は午後六刻に退勤するものだったが、林甫は太平無事を理由に巳の刻に帰り、機務は自邸で処理された。主書の呉珣が名簿を持って左相陳希烈の邸に赴くと希烈は名簿を見て署名するのみで可否を論じなかった。国忠が後を継いでも同様であった。国忠は侍御史から宰相に至るまで四十余の使職を兼ね、度支・吏部三銓も専判し、事務が多忙で一字の署名すら十分にできず、すべて胥吏に任せたため賄賂が公然と行われた。

官吏登用の乱れと栄華

  • 国忠は宰臣として選抜を司ると、選抜の日にその場で採否を決め長名(順番待ちの慣行)を用いなくした。先天以前は諸司の官が知政事となる場合、午後に本司に戻って決裁し、兵部尚書・侍郎も選抜を分担していた。開元以後、宰臣の数が減り本司に戻らなくなった。慣例では吏部の三銓(三段階の選抜)は三度審査・三度発表を行い春から夏までかかるのが常であったが、国忠は胥吏に自邸で内密に官員を決めさせ、百僚を尚書省に集めて一日で発表を終え迅速さを誇ったため、資格に多くの誤りが生じ秩序が失われた。翌年の選抜では自邸に選抜対象者を大勢集め、姉妹たちに簾越しに見物させ笑い声が外まで聞こえたという。慣例では官の任命が終われば門下侍中・給事中の審査を経るはずだったが、国忠は選抜の際に左相陳希烈を席の隅に呼び給事中も同席させ「既に選抜を対照し確定したので門下の審査は済んだ」と述べた。吏部侍郎韋見素・張倚は紫服を着ており、この日本曹の郎官と共に用件を伝えに屏樹の間を走り回った。退出後、国忠は妹たちに「あの紫袍の主事二人はどんな人物か」と述べ、大笑いしたという。国忠に親しい京兆尹鮮于仲通・中書舎人竇華・侍御史鄭昂は選抜対象者に省門に碑を立てさせ国忠の銓衡の能力を称える文を彫らせた。

虢国夫人との関係と繁栄

  • 貴妃の姉虢国夫人と国忠は私通しており、宣義里に隣接した大邸宅を構え土木は綺羅で飾られ両都に並ぶ物はなかった。昼夜問わず宴会が催され礼度もなかった。時には虢国と馬を並べて入朝し鞭を振るって馬を走らせ戯れとし、道行く人々は皆驚嘆した。玄宗は毎年冬十月に華清宮に行幸し常に冬を越して宮に戻ったが、国忠の山荘は宮の東門の南にあり虢国のそれと向かい合い、韓国・秦国の邸も棟を接していた。天子がこの荘に行幸すると必ず五家を巡り賞賜・宴楽を行った。驪山への扈従のたびに五家が隊を合わせ、国忠は剣南の幢節を先頭に立て、出発の際は餞路、帰還の際は軟脚(歓迎の宴)が催され、遠近から贈り物・珍玩・犬馬・宦官・歌児が道に絶えなかった。衛国公に進封され実封三百戸を食み、まもなく司空を拝した。

安禄山との対立

  • 当時、安禄山が特に深い寵愛を受け兵権を掌握しており、国忠はその跋扈を知り自分の下位に甘んじることを望まず排除を図ろうとし、しばしば玄宗の前でその悖逆の兆しを語ったが玄宗は信じなかった。この頃禄山は既に河北を専制し幽州・并州の精鋭を集め密かに反逆を図っていたが、行動の口実がなく玄宗の崩御を待って反乱を起こそうとしていた。国忠が権を握るのを見て自身に不利になると考え、禄山は遠くから内外閑廐使を領し、兵部侍郎吉温に留後を知らせ御史中丞・京畿採訪使を兼ねさせ朝廷の動静を密かに探らせた。
  • 国忠は門客の蹇昂・何盈に禄山の陰の事情を探らせ、禄山の邸を包囲して李超・安岱らを捕らえ、侍御史鄭昂に御史台で縊死させた。さらに吉温を合浦に貶める奏を行い禄山を激怒させ、これによって禄山が動揺すれば内心では玄宗の信頼を得られると期待したが、玄宗は最後まで真相に気づかなかった。これにより禄山は恐懼し、国忠誅殺を名目に挙兵した。玄宗は河朔の変事を聞き皇太子に監国させ自らは親征しようと考え国忠に相談した。国忠は大いに恐れ姉妹に「我々の命は旦夕に迫っている、東宮が監国となれば我々も皆命を落とす」と告げた。姉妹は貴妃に泣いて訴え、貴妃も土を含んで命乞いしたためこの計画は止まった。哥舒翰が潼関を守っていた頃、諸将は函関が京師から三百里離れているため守りに徹すべきで出撃は不利と考えていたが、国忠は翰が兵を動かさないことに自分への謀反の意図を疑い速戦を望み、朝廷から督促させた。翰はやむを得ず関を出て桃林で交戦し官軍は大敗、哥舒は捕らえられ、国が敗れ軍を失ったのはすべて国忠の誤った判断によるものであった。

馬嵬の変

  • 禄山の挙兵以来、国忠は自ら剣南節度を兼ねていたことから梁州・益州の間に腹心を配置し自らの保身を図っていた。六月九日、潼関が陥落した。十二日未明、玄宗は龍武将軍陳玄礼・左相韋見素・京兆尹魏方進、国忠と貴妃、親族らと共に延秋門から都を脱出した。諸王・妃・公主で従いきれない者もあり、賊が急に迫ることを恐れ内侍曹大仙に春明門外で鼓を鳴らさせ、また藁積みに火をつけ煙火を天まで立ち上らせた。渭水を渡ると便橋を切らせた。辰の刻、咸陽の望賢駅に至り、官吏は皆逃げ散り貴賤の別なく宮門の大樹の下に座った。正午になっても玄宗は食事をとれずにいたが、老父が麦を献上し初めて食事にありついた。
  • 翌日、馬嵬に至ると軍士は飢えと怒りに満ち、龍武将軍陳玄礼は乱を恐れ先んじて軍士に「天下が崩壊し万乗の車が揺らいでいるのは、楊国忠が民を搾取し朝野が怨嗟した結果ではないか、これを誅して天下に謝さねば四海の怨憤を鎮められない」と述べた。軍士は「以前からそう考えていた、事を行い死んでも本望だ」と応じた。折しも吐蕃との和平使節が駅門で国忠を遮って訴えていたところ、軍士は「楊国忠は蕃人と謀反している」と叫び、諸軍は駅を包囲して国忠を捕らえ斬首して晒した。この日、貴妃は縊死し、韓国・虢国の二夫人も乱兵に殺された。御史大夫魏方進は死に、左相韋見素は負傷した。しばらくして兵が引き上げると、陳玄礼らは玄宗に拝謝し「国忠は国政を乱し禍乱を招き民を苦しめ天子を播遷させました、誅さねば災難は止みません、私どもは社稷のためこの矯制(勅を偽った処置)の罪をお受けします」と述べた。玄宗は「朕の見識が明らかでなく人を誤って任じた、最近ようやくその詐りに気づき蜀に至れば処刑するつもりだった、今神明が卿らを導き朕の宿願を叶えてくれた、賞を与えこそすれ、その言葉には及ばない」と応じた。
  • この時、禄山は河洛を占拠していたが、その兵鋒は東は梁・宋、南は許・鄧を越えなかった。李光弼・郭子儀は河朔の精鋭を統率し恒州・定州を回復しており、崤・函の要害を固守し兵を動かさなければ逆賊は討たずとも自滅したはずである。しかし哥舒翰が出撃してわずか数日で天子が都を追われ朝廷が陥没し百官が捕らわれ妃主が殺され、兵禍が天下に満ち毒が四海に流れる事態を招いたのは、すべて国忠が禍を招いた結果であった。

楊國忠一族の最期

  • 国忠の子は暄・昢・曉・晞。暄は太常卿兼戸部侍郎で延和郡主を娶り、昢は鴻臚卿で万春公主を娶った。兄弟はそれぞれ親仁里に邸を構え奢侈を極めた。国忠は蜀の芸妓裴氏の娘裴柔を娶っていたが、国忠の死後、柔は虢国夫人と共に自刎して死んだ。暄は馬嵬で死に、昢は賊に陥って殺され、曉は漢中郡に逃げたが漢中王李瑀に鞭で打ち殺され、晞は陳倉まで逃げたが追手に殺された。
  • 国忠の党であった翰林学士張漸・竇華、中書舎人宋昱、吏部郎中鄭昂らは国忠の権勢を頼み賄賂を集め車馬が門を埋め財貨が山積していたが、国忠の敗北に伴い皆連座して誅滅された。彼らが王室を蝕んだことも、当時の禍の一因であった。