出自と抜擢
- 封常清は蒲州猗氏の人。外祖父が罪を犯し安西へ効力(労役)として流され胡城南門を守っていた。読書を好み常清を城門楼に座らせ多くの書を教えた。外祖父の死後、常清は孤独で貧しく三十余歳になっていた。夫蒙霊察が四鎮節度使であった頃、将軍高仙芝が都知兵馬使として才能に優れ、出陣のたびに従者三十余人を鮮やかな衣装で従えていた。常清は奮起して従者に加えてもらうよう願書を出したが、痩せて足が短くやや跛行があったため仙芝は容貌を見て採用しなかった。翌日再び願書を出したが仙芝は「従者は既に足りている、なぜ再び来るのか」と述べた。常清は怒り「常清はあなたの高義を慕い鞭轡(従者)として仕えたいと願い、伝手なく参上したが、なぜここまで拒むのか。方円(既定の枠)で人を選ぶなら士大夫の望みは叶わない、容貌で人を選べば子羽のような賢者を見逃すことになる」と述べたが仙芝はなお採用しなかった。常清はそれ以来朝夕仙芝の門を離れず何十日も待ち続け、仙芝はついに已むを得ず従者に加えた。
高仙芝への従軍と厳正な軍規
- 開元末、達奚部落が背反し黒山から北へ碎葉に向かった際、玄宗は霊察に迎撃を命じた。霊察は仙芝に二千騎を率いさせ副城から北の綾嶺下に向かわせ賊と戦わせた。達奚は遠くまで移動し人馬とも疲弊していたため悉く討たれた。常清は幕中で密かに告捷書を作成し、行軍の宿営・水源、賊との遭遇の状況、勝利の謀略まで詳細かつ精確に記した。仙芝が言いたいことを漏れなく網羅していたため仙芝は大いに驚いた。仙芝の軍が凱旋し霊察が労った際、仙芝は奴僕の身なりを解いて刀を帯びて謁見した。判官の劉眺・独孤峻らが「先の告捷書は誰が書いたのか、副大使の幕下にこれほどの人物がいたのか」と問うと、仙芝は「私の従者、封常清だ」と答えた。眺らは仙芝に会釈し常清を招いて座らせ旧知のように語り合い、人々はこれを不思議に思った。達奚を破った功で疊州の地下戍主を授けられ、判官も兼ねた。軍功により累進して鎮将・果毅・折衝となった。
- 天宝六年、仙芝に従い小勃律を破った。十二月、仙芝が夫蒙霊察に代わり安西節度使となると、常清を慶王府録事参軍・充節度判官に推挙し紫金魚袋を賜らせた。まもなく朝散大夫を加えられ四鎮の倉庫・屯田・甲仗・支度・営田の事を専管した。仙芝が出征のたびに常清に留後(留守中の代行)を任せた。常清は才学があり果断であった。留後を務めていた頃、仙芝の乳母の子鄭德詮は既に郎将となっており、その母は仙芝の邸内に住み仙芝は兄弟のように接し家事も任せ、威望は三軍を動かすほどであった。ある日、常清が外出から戻る際、諸将は皆先んじて出迎えたが、徳詮は常清を軽んじ馬で門を突っ切って過ぎ去った。常清は使院に戻ると密かに徳詮を引き込むよう命じ、節度使邸の門を数重通過させた後、後ろから閉じさせた。徳詮が到着すると常清は席を立ち「常清は微賎の身から起こり中丞(仙芝)の兵馬使の従者に加わることを願ったが中丞は再三受け入れなかった、郎将もそれを知らないはずはあるまい、今中丞は過分にも私を留後としてくださった、それなのに郎将は無礼にも私の代理を軽んじるのか」と叱責し「郎将にはしばらく死をもって軍紀を正してもらう」と杖六十を命じ、徳詮は地に倒れ引きずり出された。仙芝の妻と乳母が門外で泣いて助命を訴えたが叶わず、事の顛末が仙芝に報告された。仙芝はこれを見て驚き「もう死んでいるだろう」と述べたが、常清に会っても一言も咎めず、常清も謝らなかった。以後、罪を犯した大将二人が処刑され、軍中は震え上がった。
安西・北庭経営
- 十載、仙芝が西の節度使に改まると常清を判官に推挙した。王正見が安西節度となると常清を四鎮支度営田副使・行軍司馬に推挙した。十一載、正見が没すると常清は安西副大都護・摂御史中丞・持節充安西四鎮節度・経略・支度・営田副大使・知節度事となった。十三載、入朝し摂御史大夫となり子一人に五品官を授けられ邸宅一区を賜り、亡き父母にも爵位が追贈された。まもなく北庭都護程千里が右金吾大将軍として入朝すると、常清は北庭都護を権知し持節充伊西節度等使を兼ねた。常清は勤倹な性質で出征の際も駅馬に乗り私馬は一二匹に過ぎず、賞罰は厳明であった。
安禄山の乱と洛陽の敗戦
- 十四載、入朝し十一月、華清宮で玄宗に謁見した。折しも禄山が既に反乱を起こしており、玄宗が「凶悪な胡人が恩を裏切った、どう討伐すべきか」と問うと、常清は「禄山は凶徒十万を率いて中原を犯すが、太平が久しく続き人々は戦を知らない、しかし事には逆順あり勢いには奇変がある、私が馬を駆って東京に赴き府庫を開き驍勇を募り馬鞭で黄河を渡り日を計って逆胡の首を闕下に懸けてご覧に入れよう」と奏上した。玄宗は憂いの中でその言葉に力を得た。翌日、常清は范陽節度に任じられ東討のための募兵を命じられた。その日のうちに常清は駅馬で東京に赴き募集を行い、十日で六万の兵を得たが、いずれも市井の傭人であった。河陽橋を切断し東京での固守の備えとした。
- 十二月、禄山が黄河を渡り陳留を陥落させ罌子谷に入り勢いを増し、先鋒が葵園に至った。常清は驍騎と柘羯(西域出身の兵)に迎撃させ賊数百人を殺したが、賊の大軍が続き常清は上東門に退き再び不利な戦いとなり、賊は四方の城門から鼓声をあげて突入し人々を殺掠した。常清はさらに都亭駅で戦うも勝てず、宣仁門に退いてまた敗れ、提象門から退却する際に樹木を倒して障害とした。谷水に至り西に奔り陝郡で高仙芝に合流し賊の勢いを詳しく告げた。仙芝は賊と争うことは難しいと判断し潼関を退き守ることとした。
高仙芝と封常清の刑死
- 玄宗は常清の敗戦を聞きその官爵を剥奪し無位無官のまま仙芝の軍で効力させた。仙芝は常清に左右廂諸軍の巡視を命じ、常清は黒衣を着て職務に従事した。監軍辺令誠が事あるごとに干渉したが仙芝はしばしば従わなかった。令誠は入朝して奏事し、仙芝・常清が敵前逃亡し敗走した様子を詳しく報告した。玄宗は激怒し令誠に勅を持たせ軍中で両者を誅殺させた。
- 令誠は潼関に至り常清を駅の南西の街に連れ出し勅を宣読した。常清は「私が死なずにいたのは、国家の旌麾を汚し賊の手にかかって死ぬことを忍びなかったからだ、逆賊討伐に効なく死ぬことは甘んじて受け入れる」と述べた。以前、常清は敗軍を率いて関に入った際、闕廷に馳せ参じようとしたが渭南で勅により潼関に戻るよう命じられ、自ら罪を待つ表を起草していた。刑に臨むこの日、令誠にこれを奉呈するよう託した。
- 表の内容は、中使駱奉仙が到着し万死の罪を許し一朝の功を収めて陝州へ戻り仙芝の軍に従うよう伝えられたことへの感謝から始まり、城陥落以来三度使者を送り真心を述べたが対面を許されなかったこと、今回の帰還は苟安のためではなく社稷のための計を陳べ逆賊を破る謀を伝えるためであったこと、しかし長安は遠く謁見の機会がなかったこと、『春秋』に狼瞫が死に場所を得られなかったと嘆いた故事を引き、自らは今それを得たと述べる。羯胡との交戦(六月七日から十三日)で烏合の衆を率いながらも敵の血で野を染めるほど戦ったこと、自ら刃の下に身を投じることも考えたが逆胡の威を長じさせ王師の勢いを挫くことを恐れて思いとどまったこと、陛下に自分を都市で斬って諸将への戒めとすること、あるいは逆賊の情勢を問うて諸軍への教訓とすること、あるいは自分が死を惜しむ者でないと知り忠誠を尽くさせてほしいことの三つの願いを述べ、死してなお社稷の安泰と逆胡の敗北を願うと結んだ。
- 常清の刑死後、その屍は蓆の上に置かれた。仙芝が官署に戻ると、令誠は陌刀を持つ兵百余人を従えて「大夫(仙芝)にも恩命がございます」と告げた。仙芝は急ぎ下馬し常清の刑死の場所に至り「私が退いたのは罪であり死も辞さない、しかし兵糧や賜物を横領したというなら、それは私への誣告だ」と述べ、令誠に「上には天、下には地、兵士も皆見ている、あなたはそれを知らないはずはあるまい」と告げた。集められた兵士たちは日頃仙芝を慕っており、仙芝は彼らに「私は京で兵を募った際、多少の物資は得たが装束も十分ではなかった、あなた方と共に賊を破りその後高官・重賞を得ようとしていた、賊の勢いが猛烈でここまで軍を引いてきたのも潼関を固守するためだった、私にもしこの横領があったなら本当だと言え、なければ無実だと言ってくれ」と述べたところ、兵士は一斉に「無実」と叫び、その声は大地を震わせた。仙芝はさらに常清の屍を見て「封二(常清)よ、お前は微賎から身を興し、私はお前を判官として引き立て、やがてお前は私に代わり節度使となった、今日また共にここで死ぬとは、これも運命なのだろう」と述べ、斬られた。