郊祀儀礼への諫言
- 褚無量、字は弘度、杭州塩官の人。幼くして孤児となり貧しかったが志を励まし学を好んだ。家の近くの臨平湖で龍が争う異変が起きた際、里中の人が皆見物に出た中、無量は十二歳ながら平然と読書を続けたという。成長すると『三礼』と『史記』に精通し明経に及第、国子博士に累除された。景龍三年、国子司業・兼修文館学士に遷った。
- その年、中宗が南郊で親祭を行おうとし儀注の作成を命じた際、国子祭酒祝欽明・司業郭山惲が旨に阿り皇后を亜献とするよう求めたが、無量は太常博士唐紹・蒋欽緒と共に固く反対した。無量は建議し、郊祀は明王の盛事であり臆断で行うべきでないこと、『周礼』を精査すれば皇后が郊天の助祭にあたる規定はないこと、南郊の祭祀は始祖を主とし祖妣を天に配することはないため皇帝のみが親祭し皇后は与らないことを、『大宗伯』『九嬪』『内司服』『巾車』などの職掌を細かく引きながら論証した。『漢書』郊祀志にある天地合祭・皇后預享の例は西漢末に権臣が朝を専らにし彜倫を乱した非常例であり、範とすべきでないと述べた。しかし左僕射韋巨源らが旨に阿り欽明の議に同調したため、無量の奏は結局採用されなかった。
- まもなく母の老齢を理由に官を辞し帰郷して仕えた。景雲初、玄宗が東宮にあった際、国子司業・兼皇太子侍読に召され『翼善記』を撰して献じ、皇太子から書を賜り絹四十匹を賞された。太極元年、皇太子が国学で釈奠を行った際、無量は『老子』『礼記』を講義しその該博な弁論に聴衆は感服した。終了後、銀青光禄大夫を授けられ章服と彩絹百段を賜った。玄宗即位後、郯王傅・兼国子祭酒に遷った。まもなく師傅の恩により左散騎常侍・兼国子祭酒に遷り舒国公に封じられ実封二百戸を賜った。まもなく喪に服し墓の側に廬した。植えた松柏を鹿が荒らした際、無量は「山中に草は多いのになぜ先祖の墓の樹を荒らすのか」と泣いて訴え、夜通し守護したところ、まもなく鹿は馴れ二度と害さなくなり、無量はこれ以来生涯鹿肉を食べなかった。喪明けの後、左散騎常侍に復し再び侍読を務めた。老齢のため儀仗に随行する際は緩やかな歩みを特に許され、腰輿を作らせ宮中の内給使に担がせた。無量はしばしば時政の得失を上書し多く採用された。
- 無量は内庫の旧書が高宗の代から宮中に蔵されたまま散逸しつつあることを憂い、書写・校訂を上奏した。玄宗は東都乾元殿前に書架を設けて大規模に書写させ天下の異本を広く集め、数年間で四部(経史子集)が充実し、公卿以下を殿前に招いて自由に閲覧させた。開元六年の帰京後も麗正殿でこの事業を続けさせた。皇太子と郯王李嗣直ら五人が十歳近くになってもまだ学を始めていなかったため、無量は『論語』『孝経』を各五本写して献じた。玄宗はこれを見て「私は無量の限りない意を知った」と述べ、国子博士郤恆通・郭謙光、左拾遺潘元祚らを選び太子と郯王以下の侍読とした。七年、太子が国子監で歯胄の礼(入学の儀式)を行った際、無量は座に登り経を講じ百僚が集まって観覧し、儀式の後に厚く賞された。翌年、無量は病没、享年七十五、臨終に麗正殿での書写事業が未完のことを遺憾とした。玄宗は挙哀し朝を二日停め礼部尚書を追贈、諡は文とした。
- 無量と馬懐素は共に侍読を務め深く厚遇されたが、二人の没後、秘書少監康子元・国子博士侯行果らが侍講に入ったものの、しばしば賞賜を受けながらも礼遇は褚無量に及ばなかった。